2021年12月27日 (月)
そのネッワークは「中心を持たない広がり」
2021年12月26日 (日)
自転車のパンク
一昨日10回目くらいのパンク修理を頼んでおいて、さっき修理のできた自転車を取りに行った。
浅田輪業のお爺さんに「どんなパンクでしたか」と聞いてみると
「タイヤ自体が悪い、またすぐにパンクする」という。
いやタイヤはこの半年以内に取り替えたはずと思いながら
「だったらタイヤを取り替えてもらいますか」と頼むと
「いや、自転車全体がもうだめだ、タイヤだけ変えてもどうもならん」とのこと。
「ああそうか、それなら僕と同じですね」と答えると
「いや、自転車は買い換えられるだろう」
2021年12月23日 (木)
住民自治推進体
2021年12月22日 (水)
山口民医連理事会挨拶
2021年12月20日 (月)
必要なのは「民主主義のイノベーション」
鳥の血糖は人間の数倍、それで長生き
http://xn--cnqy0hiyav1vq72aphe2n3e64k.com/blog/archives/761
から。
「一般的な飼い鳥の血糖値は、おおよそ200-450mg/Lですが、糖尿病の鳥では600mg/Lを超えることが多いです。」
「インスリン注射による治療が困難な小型鳥種では、血糖下降薬の内服によって治療することがほとんどです。」
なぜこういうことを検索しようと思ったのかは、今日の日経新聞の記事による。鳥はエネルギー溜め込みホルモンであるインスリンの効果を抑えて高い運動能力と長寿を獲得している。食べ物が溢れていれば、そのうち人間もインスリン分泌が減って肥満が少なくなり、高血糖に適応して高い運動能力を獲得するかも。インスリン分泌力が総じて低く肥満の少ない日本人は鳥的進化の先端にいる?
2021年12月16日 (木)
2021 年度保団連地域医療活動交流集会(2021.11.21 )参加報告
「アンという名の少女(eの付くアン)」
12月14日深夜
2021年12月14日 (火)
雑誌「世界」1月号 飯田哲也「複合危機とエネルギーの未来」
雑誌「世界」1月号 飯田哲也「複合危機とエネルギーの未来」を読んだ。
飯田氏は山口県の徳山高校出身(宮本顕治も旧制中学卒業生)で、2012年に脱原発を掲げて山口県知事選に出馬したときは僕らも懸命に応援した。
というか、僕は彼の出馬が決まる相当前から「今度の選挙は飯田で行こう」と周囲に言い続けていて、古参の共産党元県議などからは医療生協理事長の立場をわきまえない発言と批判されたりしたものだった。だから実際に出馬したときは本当に驚いた。
ただ県知事選が終わったあと、彼が一時期大阪維新のブレーンになったときはなんとも微妙な気がしたものだが。
それはさておき、飯田氏はビル・ゲイツの売り込む小型原発(SMR)や炭素回収、ジオエンジニアリングを幻想と切って捨てる。自民党総裁選で高市早苗が「小型核融合炉」を何度も繰り返したのには仰天し、それを正面から詐欺的言説だと言う人がいないのにがっかりしたが、ここにようやく正気の人がいると思った。
その一方、太陽光・風力・蓄電池・電気自動車などの「太陽エネルギー文明」への転換は早期に可能という立場である。AIの発達などはそれを促進する要素となる。それは高市早苗たちの「加速主義」と混同してはならない画期的なイノベーションだとする。その上で、LED、断熱住宅、自転車利用などの低エネルギー社会への変化を促進すれば、格別やせ我慢をせずとも幸福な生活が実現するはずだという。
もう一度飯田哲也さんの話を聞いてみようかと思わせる論考だった。
ただ、河野太郎と小泉進次郎は再生可能エネルギーへの道筋をつけようとしたので、自民党総裁選で、鉄の五角形と呼ばれる旧支配勢力(政・官・財・学・情)に息の根を止められたというのはちょっと眉唾かも。
市民連合は単なる緩やかな政治組織ではない 将来の意思決定機関だ
地域循環経済を進める市民連合の主力
2021年12月13日 (月)
雑誌「前衛」1月号 新潟の佐々木 寛さん インタビュー :今回の総選挙の教訓は新潟にあり
「永遠と一日」の一日とは?
ふと気づく。
永遠とは僕が死んだ後に続く時間だ。
forever and a dayは「永遠」を意味する慣用句だが、なぜa day が後ろにくっつくのかがずっとわからない。
それは数十年前にメアリー・ホプキンのヒット曲「Those Were The Days(あの頃はよかった)、 My Friend 」の歌詞を知って以来そうである。https://www.youtube.com/watch?v=dlYPGjXy_LA
なお、これはもともとユダヤ人音楽風のロシアの民謡らしい。夢が破れた孤独な人の歌。イギリスでプロデュースしたのはポール・マッカトニー。
それはさておき、テオ・アンゲロプロスの映画 「eternity and a day永遠と一日」も最初は慣用句を誤訳した邦題だと思ったのだが、どうも違うようだ。
簡単に思いつく「短いが特別な一日の中に永遠がある」という解釈も少し陳腐だと思う。
最初の気付きのように、「永遠とは自分が死んだ後に続く時間だ」とすると a day は私が死ぬ一日である。
そう考えると、この映画の結末における問いと答え「明日の長さは?」「それは、永遠と一日」https://www.youtube.com/watch?v=uFWmeD2EARk
がわかる気がする。
つまり、この映画は「死ぬ日に思ったこと」を描いたものだった。永遠の始まり、としてもいいだろう。というか、多くの人が残した永遠の中に自分は生きているのでもある。
2021年12月12日 (日)
気候危機と民医連
気候危機対応については、民医連はもっと画期的提案をしないと役割が果たせない。
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