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2021年6月30日 (水)

カズオ・イシグロ「クララとお日さま」

店頭にうず高く積まれていたのでしばらく購入せずにいたが、しんぶん「赤旗」の文芸欄などに書評も出始め、ようやく読むことに。
半分くらいのところで、何が書かれようととしているのかおぼろげながらわかり始めた。
平野啓一郎「本心」が、2040年の気象災害と格差渦巻く日本社会を舞台にして、死亡した母を再現するAI付きイメージを購入する青年を描くのに対し、これは病気の少女のために購入されたAIロボットの視点から描かれた話。
表紙の絵がクララなのでしょう。
相変わらずの晦渋さ。
しかし、読後感としての静謐な悲しみという点ではこれまでのどの作品より大きい。「私を離さないで」に近い。F7142c5c0b50492b9aa04d5fd4d0292a

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2021年6月25日 (金)

斉藤幸平『人新世の「資本論」』と不破哲三さんの「ゴータ綱領批判」論


419vfofq8ql_sy291_bo1204203200_ql40_ml2_ 511g5z1zhrl_sy346_ 斉藤幸平『人新世の「資本論」』を再読していると、マルクスの「ゴータ綱領批判」が一つの鍵のように思えてきたので、手近にあった不破哲三「古典への招待 中巻」の中にある解説を読み返してみた。

 

「ゴータ綱領批判」は1875年に書かれ、事情があって1891年に公開されたものだが、マルクスが1867年に「資本論 第1巻」を刊行したあとほぼ沈黙を守って1883年に死亡するまでのちょうど中間地点で書かれたという時間的な面白さがまずある。

 

このなかでマルクスは今日からみて大事なことを2点言っている。

 

1は「分配なんて大した問題じゃない」ということである。

しかし、その大したものではない分配論をマルクスがあまりに巧みに表現したためレーニンの「国家と革命」における誤りを誘導してしまった。能力に応じて労働し「その労働量に応じて生産物を受け取る」社会主義から、「提供した労働量のいかんに関わらず必要なほど受け取ることのできる」共産主義の2段階があるとレーニンは言ってしまった。現在の社会保険原則が、能力に応じて保険料を支払い、必要に応じてサービスを受け取るという水準に一応達していることから見ても、そんなことは社会主義にも共産主義にも関係ないのだった。

 

2は、であればこそ生産における協同組合社会こそ大事で、これが来たるべき未来、つまり共産主義社会だということである。

 

不破さんはここで資本主義社会つまり営利企業社会が協同組合社会に変わるには数百年はかかり、それに従う政府の交代もそれに近い時間がかかるという暗示をしている。僕も以前、徳川封建社会の完成まで源頼朝の革命開始から豊臣秀吉による革命完成までの400年の時間が必要だったことから考えれば、資本主義社会から社会主義社会に変わるまでも400年くらいは普通に必要だろうと考えていたのは、不破さんのこの暗示による。

 

しかし徳川封建社会から現在の日本の資本主義社会までの革命的変化は100年程度で完成している。ヨーロッパでも200年程度だろう。

不破さんは明らかにその次の社会主義革命に必要な時間を意図的に長期化しているのである。それは現実に彼がそれに取り組んで感じた難しさを反映しているのだろうが。

 

だが、資本主義が化石燃料という閉鎖的で独占しやすいエネルギーを発見し、それに依存してまさに加速主義的に生産力を成長させたことが、大災害と飢餓で象徴される気候危機、人類を二分して片方を無意味なものにする格差、繰り返される大戦争という危機に直面させているのが現代だ。

 

社会主義革命に数百年かけるという悠長さは許されなくなっている。資本主義完成の革命よりもっと短い時間で社会は変化しなければならない。ここでマルクスが死亡の前年1882年に旧著「共産党宣言」がプレハーノフによって翻訳されたロシア語版に寄せた序文が注目される。そこではロシアは条件によっては資本主義を経ず農村共同体から直接共産主義社会に移行することも可能だと明言しているからである。それに何百年もかかると最晩年のマルクスは言ったりしない。

 

化石燃料を全廃することにしても、旧来のよう消極的で消費の削減に頼る脱成長ではなく、積極的な協同組合社会による再生可能エネルギーや食糧の生産、ケアの発展に支えられた古い脱成長のイメージとは全く違う「新しい脱成長」によるのでなくてはならない。

 

それを数十年でやり遂げてしまうようなことが求められているのである。

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2021年6月24日 (木)

パーソナル終活AIと記憶のケア

パーソナル終活AIを契約し、過去の記録はなるべくたくさん提供し、小さなカメラやマイクで現在の行動をデータとして蓄積させ、寝る前には思い出や内心を打ち明けながら日々AIと会話していくと、やがてクラウド上にもうひとりの自分が出来上がっていく。現実の行動と語りの違いが認識上の個性として把握される。
 
彼には記憶のエラーや欠損も生じない。
記憶の誤りや不確かさを繕っていく記憶のケアも受け入れる。
そして認知症になることもなく、そのうち自分らしい判断もしてくれるようになるので、これで終活用に一応完成した、自分の方はもう頼りにならないと思った任意の時点で意思決定代行者や後見人として指名する事ができる。
その後、追加料金を払っておくとシャドウ・ライターとしてSNS上に、ニュースに触発されたエッセイくらい書いてもらうこともできる。
医師たちにしっかりアドバンス・ケアのありかたを指示することもできる。
 
本人の生物学的生命が尽きると同時に、クラウド上のすべてのデータが消去されることが必須だが。

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2021年6月23日 (水)

平野啓一郎「本心」


昼休みに41jkcbmpars_sy291_bo1204203200_ql40_ml2_ 20160913195525705233_5d4cf8d552f145e345a 平野啓一郎「本心」 を読み終えた。若い頃のエリート主義的な作風を否定して格差や気候危機に目を注ぐ優しい作家になりたいという気持ちがまっすぐ伝わってくる。

これから平野啓一郎を読もうとする若い人にまず勧める彼の代表作になりそうだ。

そういう意味では池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」に相当する作品になるだろうか。

主人公と作家・藤原が会う場面が、池澤と福永武彦のことを思い出させたので、あえて両作品を並べてみた。

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2021年6月19日 (土)

戦争の世紀

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どういう基準で語られているのかは知らないが、「世界の非民主主義国の数が民主主義国の数を上回ったのは2018年頃」と書いている文章を読んだ。(竹中千春、立教大学)

 

共産党が非合法化されていない日本は一応民主主義国に含まれるのだろうが、中国、ロシア、トルコ、ウクライナ、ブラジル、イスラエルなど強権政治の国がむしろ世界の主流になっている。インドのモディ政権も当然強権政治派に分類される。

アメリカはどっちつかずで揺れている。

 

このことと新自由主義の世界制覇はどういう関係にあるのだろう?問うまでもなく明らかで彼らがこの状況を作った。

1974年のチリが世界中に広がった状態といってもいい。

 

日本でも自衛隊の「政治的軍人」たちはその状況を準備しているだろう。

 

ふと気づかされて震撼する朝。
②2018年に非民主主義国の数が民主主義国の数を抜いたという文章を読んだが2020.10.26の日経新聞の一面にも同様の記事がある。下の図はその記事の中のもの。https://www.nikkei.com/article/DGKKZO6530165022102020MM8000/?unlock=1
非民主主義国と民主主義国の定義が書かれていないので少し困る。トランプのアメリカや安倍・菅の日本は民主主義国なのか?反科学(気候変動・コロナ・オリンピックなどにおいて)の国であるのは確かだが。

ともあれ、この図が第3次世界大戦の可能性を最も雄弁に予想するものであることは確かだ。


調べてみると、スウェーデンにV-dem研究所というのがあり、民主主義国か非民主主義国かを判定しているらしい。

ウィキペディアによると

「V-Dem研究所(英語: V-Dem Institute)とは、2014年にStaffan I.Lindbergスタファン・I・リンドバーグ教授によって設立された独立研究所。本部は、スウェーデンのヨーテボリ大学政治学部内。

 

V-Demとは民主主義の多様性(英語: Varies of Democracy)を意味し、世界中の民主主義を概念化して測定するための新しいアプローチである。民主主義を5つのハイレベルな原則(選挙、自由、参加、熟議、平等)で区別し、これらの原則を測定するためのデータを収集する。

 

V-Dem研究所の民主主義の尺度は最も精巧で詳細なものである。「470以上の指標、82の中間レベルの指標、5つの高レベルの指標」がある。各指標は、少なくとも5カ国の専門家によって独自にコード化されている。政治学者のダニエル・ヘゲドゥシュは、V-Demを「学術研究のための定量的民主主義データの最も重要なプロバイダー」と評している」とのこと。

 

であれば下の図も一応信頼できるのだろう。青が民主主義国、茶色が強権国。

近現代に成立した多数の立憲民主政体のゆるやかなつながり、例えば各国の憲法に共通して現れる人権条項の共通性というものが、今や世界政治の少数派と位置づけられてしまった。

 

それに代わって軍事政権と区別のつかない強権政体が、新自由主義によって支えられて世界の多数派となり、国民弾圧のサディズムで共感し合っているという身震いしそうな現状がある。

 

彼らは必ず戦争の震源地となる。

なぜいま中国が香港に残る民主主義を圧殺したのか、なぜそれとほぼ同時にビルマ国軍がアウンサン・スーチーを犯罪者にしたて圧倒的多数の市民を殺そうとするのかについて考えるべきだ。

 

100年経って回帰したのはパンデミックだけではない。戦争の世紀が回帰して来たと考えるのは僕だけではないだろう。199643013_4018909928191731_7442357911520 201111512_4018933188189405_8171659703775

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2021年6月16日 (水)

長嶋の選手生活と僕の学校時代は完全に重なる

長嶋がプロ野球に入った昭和33年に僕は小学校に入学した。いわば、人生を一緒に始めたのである。
この頃から読売新聞のスポーツ欄だけは読むことが出来た僕は長嶋や藤田の本塁打数や勝利数は熟知していた。
小学校2年の時、我が家に父を訪れて飲んでいた中学校教員・佐々木先生に「長嶋は27号で藤田は27勝目なんでぇ」と自慢すると、佐々木先生は「大洋の桑田は31号を打ち南海の杉浦は38勝をあげた」と僕を嘲笑った。その年の日本シリーズでは、南海が巨人に4連勝した。

その後、長嶋とともに成長した僕の中学・高校生活はなんとなく暗いものになった。長嶋はそれほどすごい選手ではなく、年々衰えて行ったからである。
17年の選手生活を終えて「巨人軍は永遠に不滅です」とやはり意味不明の言葉を叫んで彼がいかにも早い引退を遂げた時、僕は大学6年で、医師国家試験を控えていたが、これで自分も国家試験不合格が決まったのではないかと思ったほどだった。

この佐々木先生の甥が、佐々木先生死亡の後、僕の病院で遅い初期研修を終了したのは長嶋と僕の1年生時代から50数年後だった。

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2021年6月15日 (火)

雑誌「世界」7月号 アルンダティ・ロイ「インドのパンデミック」


アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」を読んでインドの地名について少し覚えたあと、例えばかってのマドラスがチェンナイにかわっているなど、200504799_4009044579178266_3858057624122 201333291_4009051172510940_3605975127763 201277710_4009051319177592_6523535961882 雑誌「世界」7月号でアルンダティ・ロイ「インドのパンデミック」 を読んで心がざわついた。

 

アルンダティ・ロイというインドの活動的な作家の本は岩波新書「帝国を壊すためにー戦争と正義をめぐるエッセイ」しか読んだことがないが、ガヤトリ・チャクラボルティ・スピヴァクだけでなく鋭い女性がインドにはいるものだと強い印象が残った。

 

「世界」のこの文章もモディ人民党政権の非道さとインド国民の苦難を描いてゆるぎがなく「インドは孤立させられてはならない。私たちは助けを求めている」という声はまっすぐこちらの胸を突き刺してくる。

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立ちずさむ私達

気づくと、戦争と防ぎきれない気候変動という2つの危機のまえに立ちずさんでいる僕たちがいる。
(たちずさむ、は池澤夏樹の造語。驚き、打ちひしがれてようやく立っているという意味)
どちらも新自由主義が崖っぷちまで僕たちを追い込んのだが。_

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世界の非民主主義国の数が民主主義国の数を上回ったのは2018年頃


どういう基準で語られているのかは知らないが、「世界の非民主主義国の数が民主主義国の数を上回ったのは2018年頃」と書いている文章を読んだ。(竹中千春、立教大学)

共産党が非合法化されていない日本は一応民主主義国に含まれるのだろうが、中国、ロシア、ウクライナなど強権政治の国がむしろ世界の主流になっている。

このことと新自由主義の世界制覇はどういう関係にあるのだろう?

問うまでもなく明らかで彼らがこの状況を作った。

1974年のチリが世界中に広がった状態といってもいい。
日本でも自衛隊の「政治的軍人」たちはその状況を準備しているだろう。

ふと気づかされて震撼する朝。

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2021年6月 8日 (火)

地元の医療生協発行 「健康のひろば」 6月分記事 

192640877_3958819080867483_5465649248732 市民運動としての側面から医療生協を眺めるとどこか奇妙な気がする。
労働者階級の革命運動に共鳴した医師や看護師の事業として始まったものが、やがて住民と合体して「協同組合社会」に向かう世界的な大きな流れに加わったというやや複雑な歴史だけでなく、どこまでも医師なしには成立しないという制度的な縛りが随分特殊なものに思えるからである。結局、医学の発展自体が医師の存在を無用にする日までこうなのだろう。
であるとすれば、若い医師の参加を獲得することなしに、医療生協は存続できない。制度的には医師免許さえあればいいし、過去にはそういう態度を示した幹部も他の法人にはいたのだが、私達としては生協にふさわしい共通した価値観が必要だし、それは今後の発展のためにも重要だと私は思っている。ただし時代の変化とともにそれも変わる。長く民医連会長だった莇(あざみ)昭三先生の遺した文章を読みながら、現在にふさわしい表現を考えていると次の3点くらいに絞られてきた。
①人類の絶対的危機である気候危機への関心
②協同組合を核にした社会への展望
③プライマリ・ケアのための平等なチーム作り―それは患者個人が持つ支援ネットワークと私達が提供する支援ネットワークを「融合」させて一人ひとり違う支援環境を作ることにほかならない―への熱意
これに応えてくれる医師を得るには中高校生あたりから会話を続けていく必要を痛感する。
同時に③のためには法人全体のソーシャルワーク機能の組織的な抜本的強化がどうしても必要だ。強力なソーシャルワーク機能がなければプライマリ・ケアはありえないのである。

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2021年6月 6日 (日)

医療生協法人の課題

医療生協 監事のIさんが今期で引退することになった。
Iさんは監査意見でずっと緊急課題としての医師の後継者対策と法人本部機構の確立の必要性を説いていた。ずっと十分にそれに応えられなかったことが悔やまれる。

1:医師の後継者対策については難題だったが、僕としては共通の価値観で結ばれる若い医師集団の再結成の方向性について最近ある確信が生まれた。

僕らの若いころは共通の価値観は明瞭だった。
端的に言うと宮本顕治「日本革命の展望」を共に信じていればよかった。
今はそう簡単にいかないので
①人類の絶対的危機である気候危機への関心、
②相互の平等と協同組合を核にした社会への展望、
③患者個人が持つ資源と自分たちの提供する資源の融合によるオーダーメイドの支援環境に基づくプライマリ・ケアへの熱意
の3点くらいが共通価値観になるのだろうと思う。
それに応えてくれる高校生を探したい。

2:法人本部機構の確立については、なおも幾分絶望的である。
つい昨夜も春闘要求回答の会合があったが、法人本部は労働組合執行部と結託してこれを「回答説明会」と称するものにしようとした。
「労使交渉が団交以外にありえるのか」という僕の問いに、「その場で妥結に向けたやり取りはしないことにしましたから」と答えていたが、実際はそういう労組執行部への批判が労組員の中から炸裂して、なかなか充実した団交になった。

「労組執行部の提示した要求自体が労組員の要求からかけ離れた、ほとんどでっち上げに近いものだ」という労組内部からの批判に執行部が反論できなかった。

要求のリアリティの無さについて法人本部は気づいたか気づかなかったが分からないが、回答作成の一任を事実上求めて昨夜に至ったのである。

法人運営に最も必要な公平性・正義感を欠如した本部機構の変革はまだまだだと実感される。人がいないのではない。相応しい人を発掘せず、育てず、排除して来たのではないか、と思える。
それに対する僕の責任はどうだったのかという問題も、より大きい問題として明瞭になったのである。

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2021年6月 5日 (土)

(冗談:ある日のレーニン)

(ある日のレーニン)
 
朝から他罰的、他者攻撃的になっている自分を感じる。
一定の地位にある者の原則違反を弾劾する言葉ばかりを手を変え、品を変え思いつき、弾劾の場面を思考実験している。そのつど怒りで顔が青ざめているだろう。
 
その怒りに根拠がないわけでないが、自分で自分を疲れさせているだけと思い始める。
 
すこし状況を整理しよう。
 
身の回りを点検すると、夜や土曜日の会議が相次ぎ、レセプトや市の審査会準備などの義務的デスクワークが山積み、病棟で回診を待つ人々が大量に控えている。電カルを開くと、土曜日で出勤しているかどうかわからないはずの僕に大量のメールが来ているのを発見する。極端に余裕のない状態である。
 
で、もうしばらくすれば会議が始まってしまい、時間を奪われてしまうのが負担なだけでなく、そこには自分の原則違反を反省もしなければ自覚もしない他者がいて、顔を合わせるしかない。ここで戦闘の口火をこちらからきれば、やり方次第では互いの進退をかけた大一番になってしまうかもしれないので、そこは迷う。戦略としては機会を待ったほうがいい。では今回は黙るか。いや、ここで黙ってしまっていては後悔するだろう。機会などいつ来るのかもしれない。やるのなら今だし、それには切れ味のいいパンチを出さないといけない。例えば、こういう言い方だ。いや、こちらのほうが、相手の不当さの本質をついている。
おっと、そればかり考えていると仕事がいっこうにはけない。
 
これが今日の午前中の僕の、悪循環的なメカニズムである。
 
こういう状態の自己治療、つまり他者攻撃性を鎮めるための方法として、かっての僕はBZ剤に依存してしまったのだろう。常用量依存だったので、外面的には破綻がなかったのだが、内面が破綻しなかったとは言えない。会議が終わったあと、つまりBZ剤の効果がなくなる頃怒りがかえって噴き上がることが頻繁だったからである。
 
ただ、BZ剤を離脱する前は、こうした分析で自我の危機を乗り切ろうとしなかったので、今は自己治療の第2段階には到達したと言えるわけだ。
 
実は、どんなに大量に見えても必ず有限の目の前の実務を冷静に淡々と丁寧にこなしていくのが最も効果的な薬になる。
 
怒りが、形を変えて、単純に解決すべき一課題に見えてくる。熱血先生から必殺仕事人に変わる。
 
さて、気分も落ち着いてきたので、ウクライナあたりの富農(クラーク)大量銃殺指令の電報を出しておこう。やはりここはMEPMメロペンとメチルプレドニゾロン大量使用で乗り切るしかあるまい。

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2021年6月 4日 (金)

春闘回答の断交を控えて

今夕は春闘回答の団交の予定で、冒頭になにか挨拶したものかどうか決めかねて、ちょっと落ち着かない気持ちでいる。

 

現場から法人運営について意見があれば、役員に直訴しないで必ずライン=職責を通じて「秩序を守って上げてほしい」と事業所では言いならわしているらしいが、職責が現場の声をすくい取って僕のところまで届けることはまずない。

 

そういう意味では、参加者全員が平等という建前の団交は僕にとって現場の意見と交流する貴重な機会なのである。

 

そう言うことをいうか。
日本では犬山市だけで実現している、市民が市議会で直接発言することを制度化しているミュニシパリズム(市民政治主義)もこういうところから訓練されるに違いない。
https://www.city.inuyama.aichi.jp/shisei/gikai/1000536/1004631/1004624.html

 

しかし法人とは全く別の団体との、労使間の利益相反もする交渉の場にそのような感情を持ち込むのは公私混同に近い「労使混同」かもしれない、黙っておくべきかとソワソワした気持ちになるのである

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組織運営は全く新しく構想されなおさなければならない

僕が嫌いなのは、管理部や職責者を過剰に重視するガバナンスの様式である。
 
トリクル・ダウン方式というか上意下達方式というか、何か有用な情報がもたらされると、すぐに「職責者で共有しましょう」とくる。全職員で共有するにはどうするかを、その方式でしか考えつかないのである。
 
実は層の薄い部署で大量に職責者が生み出され、層の厚い部署では職責者は少ないし、その選択も偏りやすい。
その構造で作られる職責者会議や管理会議は実に薄っぺらい。
その会議が本当に会議になっているかをたまに窺うことがあるが寒々しい限りだ。
(職責者は組織マネジメント上の必要によってくじ引きしてでも配置されなくてはならないが、理念や実践上の要ではないと考えれば、それで何も困らないことは後で述べるが、理念や実践上の要と扱われるので無理が生じるのである)
 
加えて今は、全体として共通価値観の形成に著しい弱点がある。多様な価値観の尊重は正しいが、それによっかって、強固な共通価値観を鍛えることは放棄されているに等しい。日本国憲法、綱領の通り一遍の講義を超えて、それを携えて現実と血みどろの格闘をしているのかどうか。つまり、気候危機、貧困格差、地域そのものと医療の崩壊に憲法と綱領はどう対峙しているのか、それぞれの場所ごとに明確になっているか。
 
職員間の平等と全職員参加、つまりは労働者協同組合の精神で、組織運営は全く新しく構想されなおさなければならない。そのことは一般的な政治におけるミュニシパリズムや気候危機・災害への備えと通底するはずだ。
 
というようなことを民医連の歴史「無差別平等の医療めざして」に記述された「一条・甲斐論文」(1967年)批判を読みながら考えた。甲斐とは、山梨勤医協を倒産に追い込んだ佐藤二朗のペンネームである。
 
その批判の中にある、民医連を共産党の藩屏・衛星組織と考えるソ連・中国型の考え方は流石に今は払拭されていると思うが、「有能な管理部」への一任を求める姿勢はまだ克服できていないのではないか。新自由主義のなかではむしろ強化されているはずと予想するのが常識的だ。

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