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2019年12月27日 (金)

「医師を中心にした民主的集団医療」から「ソーシャル・ワーカーを媒介にした『共進化』的協働」ヘ

今朝は早番で医局に早く来て、1時間ばかり職員からのメッセージを見ていると、中には看過できないものもあったので、医局の朝会では医師のパワハラについて一般的喚起を行っておいたが、その後、その発言に対する波紋もあった。世の中には一般的ということはないのかもしれない。今朝早番でなければ起こらなかったことかも。

それで改めて思うのだが「医師を中心にした民主的集団医療」はもう決定的に時代遅れになっており、今後はおそらく「ソーシャル・ワーカーを媒介にした『共進化』的協働」ということになるのだろう。

「共進化」がわからなければデヴィッド・ハーヴェイを読んでみること。

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一人で荒野に立つ

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今朝は約10日間担当した「化膿性膝関節炎+下腿蜂窩織炎+糖尿病+(透析間近の)慢性腎不全+急性心筋梗塞+十二指腸球後部の巨大出血性潰瘍」(診断した順番)の患者さんを 自分一人の手で治療することはついに断念して、大学の救命救急部に転送した。血液センターから届いたばかりの輸血を3パックぶら下げながら。

分厚い紹介状を、救命救急部、消化器内科、循環器内科、整形外科、泌尿器科それぞれあてにつまり5通、画像のCD-Rも5枚作成しなければならなかった。

一人で荒野に立つことはそうとう苦しいことである。
それより患者さんのほうがヒヤヒヤしただろうけど。

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戦争を防ぐことと気候災害を防ぐこと

今朝、早番で病院に向かう自転車の上で考えたこと

気候変動によってすでに起こっており、今後ますます激しさを増す大惨事については過去の何を参照しながら考えれば良いのかと考えると、やはり20世紀の世界大戦だろう。

戦争について学ぶということは、別に戦争の悲惨さを追体験して平和の尊さを噛みしめるということだけではなくて、その戦争をどうすれば防げたのかという可能性を探ることでもある。


加藤陽子さんは中国と真摯に向かいあっていれば戦争は防げたはずと結論している。

気候変動については、化石燃料に頼るエネルギー源の構成を一気に変えてしまえばよいと分かっているので、20世紀の敗北した反戦運動に比べれば可能性はもっと大きい。80378234_2610433665706038_88039767052627 80755426_2610433672372704_33974712245178 80645934_2609414589141279_80974922175741下の写真は雑誌「前衛」2020年1月号

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2019年12月24日 (火)

中村哲のいない2019年のクリスマス

屋根瓦式に厚い医師集団を寄るべきものとして未来の後継者に手渡すことはもはや諦めるしかない。そういう条件は我々には逆立ちしてもありえない。
言えるのは、自分の時と同じく、「荒野に一人で立つ医師になれ」ということのみである。
この面では50年を経て振出しに戻ったということになる。
資本主義下の中小企業の寿命は30年とよく言うからだいたいそういうことだろう。

それでも自分の時と少し違うのは、医師以外の技術者集団はなお厚く残せるという可能性だ。
ソーシャル・ワーカー集団、看護師集団、技術職集団、介護職集団、リハビリセラピスト集団、歯科部門・・・およそ地域包括ケアの核となる諸要素を民主的に統合した輪の中に、特別ではない一員として加われとは言える。

そういう輪に招待される青年医師ほど光栄なものは実はない。それは世界を変革する輪だからである。

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研修の組み立て含めて自由に自分のスタイルで医師であることを邪魔してほしくない

今日のUSOから引用:一部野田改変
 
すべての医師は何らかの専門医であるべきだとする立場から、小池晃氏など国会議員の職にある医師を過渡的措置で「政治系専門医」に認定することが決まった。しかし、同時に2つの領域にまたがる専門医にはなれないので、落選すれば医業に戻らなくてはならないと懸念する一部の議員の中には「有り難いが迷惑でもある」とする声が広がっている。
 
同様の動きはすでに臨床技術とは無縁の公衆衛生系の医師の間にも広がっており「社会医学系専門医」、さらには「基礎医学系専門医」認定の制度が整えられつつある。小説家業の忙しい医師たちは「文学系専門医」を構想していると伝えられる。
 
こうした趨勢に対して、「徹底して他人の褌に頼って相撲を取り、そのことで住民の幸福に役立ちたい」と広言しているH.N医師(67歳)は「すべての医師が専門医でなければならないというふうに医学は発展してきてはいない」し、その上で「非専門医であることの専門医となる」などというどこか加藤周一風の考え方は思考のうえで矛盾しており、研修の組み立て含めて自由に自分のスタイルで医師であることを邪魔してほしくないと独特の口吻で語った。

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2019年12月21日 (土)

20世紀型(自己完結型の機械集約工場型)病院医療から福祉・介護・医療複合型医療への発展

20世紀型(自己完結型の機械集約工場型)病院医療から福祉・介護・医療複合型医療への発展が内発的にも(感染症をほぼ制圧して疾病傾向が変わった)、外部環境からの要請においても(=新自由主義による搾取・略奪の深刻化)、必然的なものとなっているが、その時の医療に与えられる名称に適当なものがない。家庭医療は病院医療に対立するもの、補完するものとして成立した名称である。工場的病院医療の時代を経た後の、それをも包含する性格をどう表現するか。また、そのほかの諸領域との連携を本質とすることをどう表現するか。生活・社会医療とでもいうべきか。

またその複合体のヘッド・クォーターをどう構成するかも慣習に任せてはいけない。医療内部だけに目を向けた医師、事務幹部、看護幹部中心の指導部はもはや推進力を持たない。医師確保なしに発展はないというステレオタイプの長期構想も破棄すべきである。
実はそうして医師中心主義を捨てた時、初めて新しい医師の参加もありえるのである。

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2019年12月19日 (木)

もうこんな夕方は僕には来ないだろう


簡単なドイツ語の題を持つ1219 Bei mir bist  du Schön という歌が好きだったのだが、

これは元来イディッシュで歌われた歌でBay mir bistu sheynと表記されるものだった。貧しい東欧ユダヤ人たちの言葉だったので、正式な表記はないといってよい。

動画はたまたま遭遇したものだが、この場の空気感とみんなの微笑と女の子の自然なふるまいが良くてアップしてみた。自分が何を失って今ここに独りでいるのかを思い知らされたもの。もうこんな夕方のなかにいることはない。

https://www.youtube.com/watch?v=kZ1WLIA5DuE&feature=youtu.be&fbclid=IwAR3l29J_thgzmFC9EVECOiJO4ENpmGUqh8uYpn82igtUwKPZiMB_kI23amo

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2019年12月17日 (火)

今日の発見:男は馬鹿か無理なことをして早く死んでいる、それがなければ女より長生きだ 女を抑圧して生きているから



ジェンダーが健康の社会的決定要因=SDHとされるかどうかを考えていて

Google Scholar で the Social Determinants of Women's Health を検索すると いくつか重要そうなものがあるが新しいものは出て来ない。

結局、プライマリ・ケア連合学会のSDH文書でも参照されている以下の論文が基本的なものになりそうだ。

https://equityhealthj.biomedcentral.com/articles/10.1186/1475-9276-4-11

(こういう雑誌が出ている=「健康の公平国際雑誌」?)

「将来の研究でジェンダーを独立変数として含めるための疫学的枠組みを提案します」としている論文である。

(This paper explores the meaning of gender as another of these social determinants of health, and proposes an epidemiological framework for including gender as an independent variable in future research.)

 

2005年時点ではジェンダーはSDHとされていなかった。その後はどうなったかフォローしていない。どなたか教えていただければ幸いです。

 

僕がここが重要と思ったのは以下のところ(若干修文)。

つまり生物学的性差sexによるか社会学的性差jenderによるか不明だが、男性の過剰死亡の大半は危険行動により、それを除けばなんと女性の死亡率のほうが高い。

 

「健康の社会的決定要因のほとんどで有利にもかかわらず、男性は主要な死因15件すべてで死亡率が高い。

 しかし英国とカナダの両方のデータには明らかな矛盾が内在する。

出生から45歳までの間に1,812人の男性が死亡し、そのうち1,372人(76%)は自動車事故、自殺、エイズという行動関連のものだった。自動車と男性はほぼ間違いなくジェンダーによる。残りは440人。

同じく936人の女性の死のうち、308人(33%)のみがそのような行動関連だった。残りは628人。

 

行動関連リスクを除外すると45歳未満の女性の死亡率は男性の1.43だ。

 

45歳未満に対して、45歳以上の男性と女性の主要な死因は慢性疾患である。男性は同数の心臓病で死亡するが、女性よりも若い年齢で死亡する。年齢が上がると、女性の死者数は男性の死者数と同程度まで増加する。

 

総じて飲酒、運転、および性に関する危険な行動によって示される男性のジェンダーは、45歳未満の男性の過剰死亡率のほぼすべてを占め、60歳未満の過剰の約50%を占める。それを除けば女性の死亡率のほうが高いとみなせる。

 

男性のジェンダーがどれだけ生物学的か社会的なものかは不明である。したがって平均余命における女性の優位性のどの側面が純粋に生物学的属性から生じ、どの側面がに社会的(ジェンダ-)によるものであり、変化しやすいかを定義することは難しい。」

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2019年12月14日 (土)

今週週末は空いていますか

今朝、病棟から呼び出されて最初にした仕事はちょと手間取った気管内挿管から人工呼吸の開始。
なんだか最初からフルスロットルで週末開始。
しかし人工呼吸の人の方はこれでしばらくは水平飛行できるので、空いた外来診察室見つけて読み残した本を読み始める。
斎藤幸平、佐々木隆治、デヴィッド・ハーヴェイ、新版「資本論」の4者並行。しばらく前まで10冊くらい並行していたが努力してここまで来た。毎月届く雑誌「世界」「現代思想」「前衛」がちょっと重荷・・・医者の読む本じゃないと思うが、医者が読んでいけない本があるのかと反問する。いや煩悶する。

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ブルシット・ジョブーデヴィッド・グレーバー



僕もその中にいるグループがいま作成中のパンフレットには、実に衝撃的な一文がある。

 

「中高年の死亡率には大きな職業格差がある。製造技術者の死亡率を1とすると、サービス業(介護・美理容・調理・接客など)3.7、管理職3.0、専門職1.7、運輸業1.6である。この格差は1980年以降拡大している」

 

さてこれをどう解釈したものかと考えているとデヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ現象について」というエッセイ(日本語訳は雑誌「現代思想」2019年10月号、芳賀達彦+酒井隆史訳)にぶつかった。

 

このエッセイによると、この100年で製造業労働者は世界的にみても大きく減少し、「専門職、管理職、販売職、サービス業」は3倍以上に激増した。

 

実はそのせいでケインズが1930年に予測した「20世紀末には週15時間労働」は実現せず、労働時間は延長した。

 

それに伴って職種間には4倍近くもの死亡率の格差が生じているという残念なことになっているのではないか。

 

いらない仕事を作り出すのは政治的なものであるというのがグレーバーの主張である。自由な時間を獲得した活発な人びとは「都市の反乱」を起こして資本家に対して圧倒的な脅威となる。そこで、上記のような仕事を作りだし、早死にするほど働かせて、無抵抗な状態にしておくことが資本家の支配を永続させる秘訣なのだ。

 

ブルシットというのは極めて下品な俗語で「糞どうでもいい」の意味であるくらいに思っておけばいいようだ。大企業の顧問弁護士や証券会社の管理職などがその代表とされる。本質的には社会にとって有害でしかないのに、当人の人生をすり減らしてしまう、精神的暴力に満ちた仕事とも解釈される。

 

どういう仕事がブルシット・ジョブなのかの判断は割と簡単だ。その職業がこの世から消えて困るかどうかを想像すればいい。看護師がいなければかなりの人間は生きて行けないし、ミュージシャンがいなければ今晩寝付けない。いっぽう、上記の2種以外に保険業者、人材派遣業者、広告代理業者、勧誘電話業者、風俗業者などは、給料は高いにしても、いなくても困らない。医師のごく一握りだが製薬会社お抱え医師もいないほうが社会のためである。

しかも彼らは自らの仕事の虚しさのため実直に働くことのできる人間に心の奥底で恨みつらみを増大させている。ー理事長などさせられている僕もそうだ。かくして彼らの恨みの的になっている生産労働者はいっそう激しい搾取で苦しめられる。

 

そしてブルシットな仕事の人々の支配下に置かれた人々は無意味な仕事をさせられつつ産業予備軍として失業におびえ社会から排除され罵倒されながら生きている。

 

本来、人のために役立つ仕事ができ、総労働時間も短縮させられる膨大な数の人をこんな糞仕事に縛り付けておく、疲弊させて、抵抗力を奪い早死にさせるという戦略こそ20世紀の資本家がなした大発明なのだ。

 

その結果としての冒頭の死亡率統計なのである。

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2019年12月13日 (金)

レイクニュータウン

1969年、高3の修学旅行で富士山に登り、その後軽井沢に泊まって東京に出てから広島に帰った。
・・・と思っていたが、泊まったのは軽井沢ではなく、そこに隣接する「レイクニュータウン」という国土開発株式会社が作った新開発の別荘分譲地の中の山小屋風の宿泊所だった。入り口にスイスのレマン湖を真似したという池があるので「レイク」という名称になるのである。
 
なぜ、そんなことを書くかと言うと、それから3年後、その別荘分譲地の片隅にある企業保養所で、「あさま山荘」事件が起きたからである。今日、この本を読むまで「あさま山荘」は山深い浅間山麓にあると思っていたが、馬鹿な高校生が夜中まで騒いで、宿泊所の職員がキレてしまったあの場所のごく近くだったとはつゆ思わなかった。79136854_2574996659249739_58263650038123

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ナオミ・クライン「楽園をめぐる闘い」堀之内出版



2017年9月カリブ海を襲ったハリケーン・マリアで米国自治領プエルトリコでは少なくとも3000人が亡くなった。

すさまじい破壊の後、新自由主義の嵐ショック・ドクトリンが吹き荒れる。電力公社や公立の学校がやすやすと民間に売られ、政府は最小限のものになっていく。

住民を島から追い出して、豪華な邸宅の並ぶゲーテッド・タウンのなかで米国本土から引っ越してきた金持ちたちが税金から免れるユートピアが作られようとする。

一方、度重なる災害に疲れ果てて抵抗する気力もない住民の中からは食とエネルギーとケアを自給する小さな共同体が各地に生まれ、やがて連合していく。それは、もう一つのユートピアの姿だ。

 

二つの相反するユートピアがぶつかり合う様子を、「ショック・ドクトリン」の調査ジャーナリスト ナオミ・クラインがレポートするこの本は、やはりショック・ドクトリンによって長期政権が成立して、度重なる災害に国民は疲弊して抵抗力を失っている日本で、私たちがどうすればいいのかを直接示唆するものとなっている。

 

やはり、内橋克人のいうFEC(食糧・エネルギー・ケア)自給コミュニティこそ抵抗の拠点なのだ。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/97849092373929784909237392_600

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2019年12月 9日 (月)

「生活の部分を支援する」と、生活の「部分」を支援するの違い  田中 滋さんの欺瞞

まちづくり戦略企画室を作って中小病院はトロイの馬になるべきだ、ミイラ取りがミイラにならないよう気を付けながら
 
政府側の地域包括ケアのイデオローグである田中 滋さんがいうのは大略こういうことである。
「今年20年目を迎える介護保険は医療保険の扱わない生活の部分の支援を行なう目的でスタートした。
だが、多くの人の理解に反して、『生活の部分』を担うのでなく、生活の『部分』、つまり介護の専門家が担当するごく特殊な範囲だけをカバーするものである。この違い分かるかな。ワカンネェだろうな。
つまり、介護とは介護の専門家が行なうことなのだ。
したがってその他の広範な生活の領域は介護保険外で、家族、地域、企業が担わなければならない」
介護の逆立ちした定義など詐欺的学者の言説の真骨頂と言って良いが、しかし、田中 滋さんは親切なのだ。
企業と言っても、通常の企業が介護などという利益の薄いところにそうそう出てくるものではない。保険会社、コンビニ、スーパー、私鉄などが本業に役立てばやってみるという程度で手を出すだけだ。私がここで企業といっているものの本体は病院だ。医師が足りなくて高度な急性期医療ができなくなった中小病院は、病床維持に汲々とするより残った医療機能をフルに生かして介護保険外の介護に進出すると儲かりまっせ、と田中 滋さんは言っている。
 
実はこれは地域要求にも合致している。医療機能のない介護業者の展開する事業の質の低さは目に余る。介護との連携を心得た医療がどうしても必要だし、そこに進出する病院が重きをなしていくのは当然だ。だが、そのままでは医療保険、介護保険の縮小をめざす政府の思うツボにはまるだけだ。つまりは敵を補完するだけの役割に堕する。
 
介護保険外の介護事業に参入していく中小病院に必要なのは、そこに地域要求、住民要求があるという認識だけではなく、そこで不可欠な連携を住民中心のものに変えて、新たなまちづくりに向けた反転攻勢を準備することである。トロイの馬となって。
 
その時の司令部として欠かせないものに「まちづくり戦略企画室」がある。

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その人らしく

「最後までその人らしく生きることを支援する」という言い方にずっと抵抗を感じてきた。
 
根性曲りというか、へそ曲がりというか、「その人の信条が根深いレイシズムだったらどうするのか。『外国人介護者を俺に近づけるな』というような要求を、いくら癌末期であるにしろその人らしさというということで容認できるのか」とすぐに反問してしまうからである。
 
何か新自由主義的な個人の欲求の絶対化の臭い、例えばホリエモンの様々な主張を肯定するようなものをそこに嗅いでしまうと言っても良いだろうか。
 
今朝、しかしこの言い方の源はアマルティア・センのいうケイパビリティ、つまりその人が価値を認めるような生き方ができること、なのだと気づいた。
 
誰かがそれを俗耳に入りやすいよう言い換えたのだろう。
 
人間が価値を認めるというとき、その価値は少なくとも「他人を自分の目的のための手段としてだけ扱うことは許されない」程度の普遍的な人間の不完全義務には根差しており、人間がレイシズムに価値を置くということはそもそも想定されていない。
むしろ多くの人はケイパビリティの激しい不平等、欠乏のなかで人生を終わろうとするのである。
「その人らしさ」はその条件で認めても良い。

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2019年12月 1日 (日)

私のSDH学習の到達点


社会経済格差を土台として成立する健康格差という考えかただけでは,あたかもマルクス「経済学批判」序言の土台ー上部構想という静的なピラミッド型史的唯物論図式のようである。

これに対し、社会経済格差を貫く柱を自律と参加(の欠乏)の二重鎖と考え、その周囲に細胞内小器官のように約10の領域での共進化的(=相互に影響し合う)決定要因群を配置した、マイケル・マーモットの健康の社会的決定要因SDH論は、デヴィッド・ハーヴェイが「資本論入門」「資本の謎」(いずれも作品社から日本語訳が刊行)で展開した動的な、いわば生物細胞型の史的唯物論に相当する。

Photo_20191201202201 さらにデヴィッド・ハーヴェイに沿って言えば、社会経済格差も、新自由主義以前に主流だった(比較的穏やかな)賃労働による搾取レベルのものと、新自由主義以後に主流になった暴力的な略奪によるものとが混合している。その混合の度合いによってSDH群の態様が変わってくる。

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