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2019年3月16日 (土)

森谷尚行先生

今夜は久し振りに東京に来て二つの会議に出席。

その後食事をしながら、尾形先生から北海道の森谷尚行先生の亡くなられたことを聞いた。

1980年の暮れだったか、宇部協立病院建設のため全日本民医連に1年間通じて医師1人を派遣してもらえるよう依頼に行った。
僕は28歳だった。

当時の山口には、4年先輩の吉見と僕しか50床の建設予定病院と2つの既存の診療所を回す医師がいなかったからである。そのかわり、ともかく1982年に病院がスタートすれば当初から宇部で初期研修予定の上野のほか山梨や東京で初期研修を終えた医師が次々と着地する予定だった。

新宿小田急デパートの中華料理屋で、高柳、中野、大野と集まった全日本民医連の幹部の先生の反応は悪く、僕はほとんど絶望的になったが、遅く来た森谷先生が「医師体制危機の支援ではなくこれから建設という支援ケースは初めてだ、面白い」と言って、「うちから出す」と言ってくれたのである。僕は泣こうなんて思わなかったが、泣き声しか出なかった。

その後、僕自身も病院建設に備えて山梨に研修に出た。その間の1年間の僕のいない穴は山梨から交替で応援に来てもらった。

その後、病院開設に伴って北海道から新垣先生、続いて高橋先生が応援に来てくれた。山梨で習ってきたばかりのERCP を診療所で始めてショックを起こした患者を病院に送ると「この程度のことでERCP をやめるなよ」と言ってくれた新垣先生は数年前亡くなられた。
「先生の診断力は買うが、どうしてインテリジェンスの低い患者にあんな冷たい態度が取れるんだ」と厳しく詰められた高橋康行先生はまだお元気で野鳥の写真の話をとめどなくされているようである。

随分経って、神戸の額田 勲先生が森谷先生の食道癌の見舞いに行ったという話を岩波新書に書いておられて、その本が著者恵贈として岩波書店から送られた僕が、森谷先生を悼むとブログに書き、すぐにご存命で職場復帰されていると小内さんから訂正を求められたのは笑い話だったが、今回は本当のことになった。

その後額田先生も亡くなられたが、森谷先生には改めてお礼を申し上げたい。僕の夢、山口民医連のスタートは先生のおかげで形になったのである。

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コメント

野田浩夫先生

 ITに疎いのですが、野田先生にお願いがあって連絡したいと考えました。この後送信すると読んでもらえるのでしょうか? 私は森谷尚行の身内の者ですが、先生がお書きになったこの文章を使わせてほしいと思います(遺稿集に)。返信いただけると有難いです。
                    森谷きよし

投稿: | 2020年6月19日 (金) 17時35分

森谷きよしさま

こんなつたない文章で良ければ使っていただければ大変ありがたいです。
先生のご冥福を心からお祈りしています。

投稿: のだひろお | 2020年6月22日 (月) 19時10分

野田浩夫先生

本日、北海道民医連の小内事務局長から電話をいただき、野田先生のご意向をお聴きしました。その後このページで確認できました。有難うございました。遺稿集が完成しましたら、1冊送らせて下さい(来年になると思いますが--)
                            森谷きよし

投稿: | 2020年6月24日 (水) 15時49分

野田浩夫先生

 2020年の年末に、故森谷尚行の遺稿・追悼集が完成しました。山口民医連の野田先生宛に1冊お送りしましたが、お目通しいただいたとのことで感謝いたします。有難うございました。
                    森谷 絜
 
 

投稿: | 2021年1月 9日 (土) 05時24分

ありがとうございました。さっそく読ませていただきました。改めて先生のご冥福をお祈りいたします。

投稿: 野田浩夫 | 2021年1月12日 (火) 13時18分

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