マイケル・マーモット「the Health Gap」序章(1)
おおよそ、以下のような内容。ざっと紹介した後、簡単に感想を書くつもりだ。
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なぜせっかく病気を治療した患者を、その病気を生んだ環境に返すのか?
その女性は悲惨を絵にしたようだった。まるで謝っているかのような足取りで受診し、医師の前の椅子に縮こまって座り込んだ。外来診察室の退屈さは、愛想がなくて手入れもされていなくて救いようもなかった。僕が気分良くされるものは何もなかった。
「調子が良かったのはいつまで?」と中欧なまりで精神科医は質問した。だいたいに精神科医は中欧なまりで話すもので、オーストラリアでさえ例外ではない。
「先生」 患者は言った 「夫はまた大酒飲んで私をぶつし、息子は刑務所に送り返されたし、娘は二十歳にならないのに妊娠しているし、私は毎日泣いています。何もする気力がなくて眠れません。生きていても無意味です」
女性が鬱状態だとすぐわかる。僕の気分はさらに落ち込んだ。1960年代の医学生として僕はロイヤル・プリンス・アルフレッド病院(シドニー大学の教育病院の一つ)の精神科外来で見学していたのである。
精神科医は女性に青い錠剤をやめて赤い錠剤を試すように言った。医師が1ヶ月後の予約票を書くと、女性は悲惨を絵にしたままで帰って行った。
「これだけですか?他には何もないんですか」という目を向ける疑り深い医学生に精神科医は「私にできることなんてほとんどないよ」と言った。
女性は赤い錠剤のなかの物質が欠乏して苦しんでいるなんてとても納得できなかった。鬱状態が生活環境と関連しているのは誰が見ても明らかだった。
個人的にできることはほとんどないといった精神科医は正しかったのかもしれない。しかし、僕がこの本に書くのは、僕がそれにずっと疑問を呈してきたということだ。僕にとって、できることが何もないなんていうことはありえない。「僕ら」はこの女性の鬱状態の原因に注意を払うべきだ。「僕ら」がどういう人間であるべきで、僕らが何をなすべきかという疑問こそが、僕の精神科への浮気を棄てさせ、病気の社会的原因を探求させ、ずっとのちにはそれを指導して回る道を「追求させた理由である。
この本ははるか昔のあの荒涼とした精神科外来から始まる僕の長い旅の結論である。
精神疾患への疑問に限らない。人々の生活は身体疾患の原因ともなるのである。僕がシドニーで研修していた市中教育病院はギリシャ、ユーゴスラビア、南イタリアからの大きな移民グループの面倒を見ていた。彼らは腹痛のため救急外来によく来ていたが、自分の症状を説明するのに英語がうまく使えなかった。僕ら若い医師は制酸剤を与えて返すよう教えられていた。
それはだめだと僕は気づいた。人々は生活の中にある問題を抱えて病院に来るのに僕らは制酸剤の白濁液のボトル(註 マーロックス)で治療しようとするのである。僕らには何か道具が必要だ、と僕は考えた、生活の中にある問題を扱うための道具である。
周囲から尊敬されていた先輩は精神生活には連続性があると僕に述べた。おそらくストレスに満ちた環境が精神疾患をもたらすというのは驚くほどのことではないが、と彼は言った 「生活ストレスが身体疾患を引き起こすことは本質的にありそうにない」。もちろん先輩は間違っていた。そのとき、僕は彼に反論する証拠を持っていなかった。だが今ならある。
精神生活と避けることが可能な病気とに関した証拠はこの本の中を貫いている。たとえば、死も精神の中にあるだけでなくむしろ身体的なものだ。精神疾患のある人は、精神疾患のない人に比べ10-20年寿命が短いことが分かっている。
精神の中で何が起こっていようと、それは精神疾患におけると同じように身体疾患のリスクや死のリスクにおける影響をもたらすのである。
そして、精神の中に起こることは、人々が生まれて、育って、生きて、働いて、年をとる状況によって深く影響されるし、また日々の暮らしの中でそれらに影響する権利や経済力や利用できる資源の不平等にも深く影響される。
この本の大半はそれがどのように作用し僕らがそれについて何ができるかについて費やされている。
そのころの医学は考えれば考えるほど予防に失敗していた。
社会の隅っこにいる人たちの腹痛やDVで苦しむ女性のうつ病についてだけでなく、医学の大半について僕は言っているのだ。外科手術はがんに対してはやはり粗漏なアプローチのように思える。喫煙をなくせば肺がんはほとんどすべて予防できる。当時は知らなかったが、癌の1/3が食事で予防できるのだ。心臓病こそは、ただ発作を待って治療するより予防したいと思うものだ。脳卒中も食事と高血圧治療で予防すべきものである。もちろん外傷には外科手術が必要だが、外傷そのものを減らすような手立てを取らなくてもいいのだろうか?
とはいえ自転車事故を起こしてしまったとき、無料で受けられた手際のよい外科治療にとても感謝している僕なのだが(ありがとう、NHS)。
予防のためといえば、以前は推測であり今は証拠があることなのだが、生活や運動や食事や飲酒を賢く自分でコントロールできること、幸せな休日にくつろぐことは、お金の苦労や社会的な苦労から快適に解放されているのなら、まことに結構なことである(ついでに、僕のような医者が働いていた貧乏人向きの公立病院にかかるのではなく、金持ち向きの開業医にかかることも付け加えておこう)。
だけど、あの精神科外来にいた女性に「タバコを止めるべきだ、夫が殴るの止めるやいなや、二人は一日に5種類の果物や野菜を取るよう努力しなければならない(たとえ一日五つのスローガンがなくても健康な食生活について知ったのだから)」と教えるべきだったのだろうか?
社会の隅っこの孤独な存在である移民にフィッシュ アンド チップスを食べるのをやめて、ジムの会員になれと僕らは教えるべきだったのか?
そして、健康は自己責任に属することだと主張する人々のために、僕らはあのうつ病の女性に気を引き締めて(pull her socks up=褌しめなおして)自分で解決しろというべきだったのか。
それから続いて僕が考えたことは、僕が観察している患者の特徴は社会的に不利であるということだった。それは絶望的貧困とは限らない―というのは、うつ病の女性の夫は働いていたし、あの移民は他の移民と同様に社会に足がかりを得るため激しい労働をしていたからである。
事実、あのうつ病の女性に起こっていたこと―DV、息子の入獄、ティーンエージャーの娘の妊娠は、最下層の人々の中ではごく普通のことである。
僕は社会的不利を行動のなかに見てきた―貧困だけでなく、社会的地位の低いことも、病気をもたらす生活問題をひきおこすのである。
彼女は病気だった。すなわち火事はもう荒れ狂っていたのだ。彼女を薬で治療するというのは火事を消すのに役立つかもしれない。しかし、僕らは火事を予防する仕事をしてはいけないのか?
なぜ、治療した人をわざわざ、病気を生み出している状況の中に送り返すのか?
そして、これは自分に言い聞かしたのだが、そのことは次のことに必然的に結びつく。病気を生み出す環境に関わること、単に錠剤の処方を書くのに終わらせないこと、予防に関心をもってもらったら、人々によりよく行動することを教えること。
しかし、医学生だったその頃、そして、それ以降も、医者から言われたので体重が減ったという患者に出会ったことがない。
僕らは医師として病気を治すように訓練されている。当然だ。しかし、振る舞いや健康が患者の社会的条件に関連しているのであれば、自分自身に質問するのだが、その社会的条件を改善するのは誰の仕事になるべきか?この問題に医師一般は、少なくともここにいるこの医師は巻き込まれないでいるべきなのか?
僕は人々がより健康であってほしいと思うからこそ医師なのである。
単に人々が病気になったとき治療しているだけなら、せいぜい間に合わせの対策でしかない。医師は進んで人々を病気にしている条件を改善することに巻き込まれるべきだ。
僕はそのための根拠を得た。これからもそうする。
根拠とまではいえないが、しかし、僕の医学の先輩たちの多くが僕に支持を与えてくれた。彼らは余りに忙しく消火に当たっていたので、火事を起こしている条件の改善のために力を割くことはできなかったのだ。
こんなことを考えながら、僕は呼吸器病棟の研修医として働いていたが、ある日、結核のロシア人患者を担当した。指導医に患者をプレゼンテーションしたとき、僕は医学的な病歴をすっ飛ばした、今思い出しているのだが、こんな風にやってしまった。
「Xさん、ロシア人ですが、まるでドストエフスキーの小説の登場人物です。人生という高速道路でつまづきました(おどおど)。ギャンブラーのように幸運を使い果たして、アルコール中毒で、恋愛に失敗、いまは、あたかもロシアの小説のなかにいるごとく、結核になってしまいました」
2、3日後呼吸器科の主任医師が僕を医局の隅に引っ張っていき「君ににぴったりの分野を見つけたぞ。疫学って言うんだ」
(厄介者の僕を追い出せれば何でも良かった)
「医者と人類学者と統計学者が一緒に仕事して、住むところや暮らし方によって発病率がなぜ違うかを明らかにしようとしている。君を、カリフォルニア大学のバークレーに研究員資格で派遣して レオナード・サイムの元で疫学の学位をとらせる」
社会的条件が健康や病気にどのようにして影響するのかを実際に研究できるというアイデアは僕にとって一つの天啓だった。病棟を歩き回りながら僕は自分に言い聞かせていた。
「もし社会的条件が身体的あるいは精神的な病気の原因になるのなら、ある社会の有病率は僕らに社会自体についての何かを教えてくれるはずだ」
今ではこれが当たり前に聞こえることは分かっているが、当時の僕は医学の訓練を受けていただけで、哲学については教えられていなかった。
それは「健康的な社会」という用語が二重の働きをすることも意味していた。健康的な社会はきっと市民のニーズに応えるためよく働く社会だろうし、だからこそ、そこにより良い健康がある社会であるのだろう。
スペイン語ではSalud(健康)、ドイツ語ではprosit(あなたにいいことがありますように)、ロシア語ではVashe zdorovye(あなたの健康のために)、ヘブライ語ではLChayyim(命に)、マオリ語ではora(命に)。英語ではCheers、Bottoms up、Here's lookin' at you kidと言わないときにはGood healthという。人々はどこでも健康に価値を置いている。人々は一緒になって健康に良くない何か、すなわち飲酒をやらかす時でさえ、お互いの健康を願って乾杯することを忘れない。健康は僕たちの全員にとって重要なことである。
しかし、じっさいは他のことが優先されている。
シドニーでの経験の40年くらい後に、僕はロンドンの貧困層の何人かにどんな気持ちで暮らしているのかを質問した。
家族や友情の大切さ。子どもの心配ー安全な遊び場、いい学校、たちの悪い友人に引きずられてトラブルを起こしたりしないこと。家族を養い、暖房し、たまに息抜きするのに十分な収入。快適な家。緑地があり、便利な公共交通機関、商店や娯楽施設があり、犯罪のない地区に住むこと。しっかりして興味を持てる仕事があり、失業する心配のないこと。年寄りがゴミ捨て場に投げ出されないこと。
ロンドンの富裕な地域で質問しても、実際に答えはほとんど違いが なかった。
ついで、僕は健康についてどう考えているか聞いた。
貧しい国々では病気は非衛生的な生活環境と医療の欠乏によるとみんなが言った。
豊かな国々では誰もが清潔な水と安全なトイレを使っており、病気は医師に面会しにくいことと僕ら自身の気ままな行動、おそろしく無鉄砲な飲酒、喫煙、ぐうたらして肥ること(僕が控えめに翻訳)、それから単に遺伝上の運の悪さだとみんなが言った。
僕がこの本で言いたいことは、これらの情報は健康にとって何が重要かという点で間違ってはいないが、あまりに偏っているということである。
精神科外来のうつ病患者、腹痛の移民、結核のロシア人-これらは普遍的なものであり例外なんかではない。
僕らは本当の原因は生活の中にあり、一秒一秒、一日一日、一年一年健康に深刻な影響を与え続けているのだということをもはや知っている。人々が生活する条件、ロンドンでの情報提供者がその気持ちを語ってくれたこと全部が、彼らの健康を決める主原因なのである。
中心課題は、子どもの未来にしろ、社会にしろ、経済にしろ、決定的には健康にとってにしろ何がいいかということより、日々の生活の好条件、すなわち本当に大切なことが不平等に分配されていることなのだ。
生活上のいろんな機会の不平等な分配の結果は健康が不平等に分配されることである。
君がもっとも幸せな環境に生まれれば、不幸な生まれの人に比べ健康な生活が19年以上延びることを期待できる。不平等の悪いほうの端にいれば、能力を伸ばすこともできないし生活のコントロールも奪われる。結果的に健康が損なわれる。そして、そういう効果は勾配がある。社会的不利が大きくなるにつれてその分だけ健康も悪くなるのだ。
このことを見つけるのはすばらしく興味深くスリリングでもあるだけでなく、、エビデンスは回答も与えているのだということに転回する。僕らの生活条件をどう改善するか、健康をどう改善するかはこの後の章で述べる。
僕らは変えられるという知識は僕らを励ます。僕らは変えなければならないという論争では僕は絶対に自信がある。
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