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2015年12月31日 (木)

上座部仏教とオープン・ダイアローグ (とバフチン?)

年も押し迫って、37歳になる一人の医学生が病院見学に来た。
医学部に入る前の大学では仏教を専攻したという人で、夜になってしばらく話し込んだ。

彼が専攻した仏教は原始仏教あるいは上座部仏教であり、それから見ると、阿弥陀如来の発願で衆生が救済されることを信じるような日本の仏教はあきれた妄想の体系に過ぎないのだそうだ。同じくキリスト教もそうだ。

徹底的にリアルになること、そうすることで初めて輪廻転生の業から解放されて、自らを無にする死を実現できる。人生の目的はそういう死を得ることだから、病気を治療するかどうかなんて人生には無関係なのである。もちろん釈迦もそういう死を遂げているはずだから、彼が輪廻転生して再来することはない。同じく現代のキリストがホームレスとして街角にうずくまっているなどというのも救いがたい妄想である・・・僕が言っているのではなく、彼の主張を敷衍するとこうなるということなので、関係者の皆様、怒らないで下さい。

彼から勧められたのはアルボムッレ・スマナサーラの本である。
調べてみると新書がたくさん出ているのは何か怪しい。

「読んでもいいですけど、仕事に支障が出るから、できれば引退してからにしてください」
だったら勧めるなよ、と言いたくなる。引退なんかしないから読むことはないかもしれない。

アルボムッレ・スマナサーラつながりで、彼が話題にしたのは斉藤環氏が最近精力的に提唱している「オープン・ダイアローグ」。つながっているのだ。

きょう、精神科の同僚が雑誌「精神看護」2015年9月号を貸してくれた。斉藤環さんの「オープン・ダイアローグ」に関する講演が載っている。オープン・ダイアローグの源は、ソ連の文芸評論家バフチンの多声(ポリフォニー)論である。これも驚く。バフチンは大江健三郎が紹介しているのを読んだだけで、実物は敬遠していた。

バフチンに倣って、本当の対話オープン・ダイアローグを集団の中で実現することが重要なのだ。

巷でよくみる自分の話を交互に発声しているだけという「対話」は正しくは独語モノローグが併走しているだけで対話ではない。オープン・ダイアローグは、そのモノローグから共有可能な言葉を引き出してくるものである。

患者を含んだ多職種協働の一種といえる。それを実現すること自体が治療であるということ。
だが、どこで上座部仏教とつながっているのだろう?

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