神島裕子「ポスト・ロールズの正義論 ーポッゲ・セン・ヌスバウムー」ミネルヴァ書房2015/6
1971年生まれの若い人の著作。 主としてヌスバウムに視線が注がれている本である。
私の恥を書けば、これまでヌスバウムについて触れられた文章を何度か見たが、最初は、センの仲間だが極端なことを言う爺さんだと思っていた。
次に「サバルタンは語ることができるか」のスピヴァクと同じく欧米人と結婚したインド人女性かと考えた。インドの女性のことに関して発言が多いようだったからである。
この本を読んで、ようやくウイキペディアを検索して、NYに住むドイツ系ユダヤ人の女性の哲学者だと知った。
私の今年の読書の中では、デヴィッド・ハーヴェイ「コスモポリタニズム」、デヴィッド・グレーバー「デモクラシー・プロジェクト」航思社と並ぶインパクトがあるものだった。
「人間がただ人間であるというだけで」保障される可能性の幅を、ヌスバウムは「10の基本的ケイパビリティ」としてリスト化した。
それは世界人権宣言とほぼ同一のものである。
ただ世界人権宣言が、なぜ人間であればそのような権利が保障されるのかという権原を明らかにしていない文字通りの宣言であるのに対し、ヌスバウムのほうはその「なぜ」を突き詰めて考えたものであり、同時に、それを実現する人間の育成法に考えが及んでいて、理論的根拠という点で強固なのである。
権利の源泉は、アリストテレスの説いた「人間の本質」に結局は求められる。
これは1980年代、90年代に日本のマルクス主義哲学界で盛んに議論された「人間の本質はあるか」論と同じものであるように思われる。
その議論の代表者である鈴木 茂は、言語学者ノーム・チョムスキーや動物行動学者コンラート・ローレンツ、さては眉唾かもしれない今西進化論まで援用し、人間は白紙「タブラ・ラサ」で生まれて環境で決定される存在ではなく、社会共同性という本質を持ってうまれてくると言い、「類的存在」という言葉を使って同じ様に考えたマルクスの考えを発展させれば、その社会共同性を完成させる過程が人類史だと主張した。
言語学・コミュニケーション論学者尾関周二も、労働と言語が人間の本質だとし、その背景に社会共同性というより深いところでの本質があるとした。普遍文法を先天的に備えて人間は生まれてくるとしたチョムスキーがそこには大きく影響を与えている。
僕としては、この本で読むヌスバウムの議論より、鈴木や尾関のほうがよほど面白いと思えるのだが、マルクス主義の側で彼らを継ぐ主張が現れないので、できれば、日本のヌスバウム研究者が鈴木や尾関を振り返ってくれることを祈るばかりである。
*おそらく誤植と思えるところ1箇所
207ページ 井上達夫の引用「哲学的普遍主義を拝した歴史的文脈主義」の「拝した」は「排した」ではないか。意味がまったく逆になるので要注意。
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