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2015年7月20日 (月)

カズオ・イシグロ「忘れられた巨人」早川書房2015年・・・最後の章は日本の能を思わせる

前作「わたしを離さないで」が面白かったので、10年後の新作は期待して読んだ。

最初から映画化を予定したような描写が続くが、形式がファンタジーなので、僕には辛い。

真ん中あたりで読むのをやめようかと思ったが、その時読んだ巻末の解説にイシグロ自身が「読者がついてきてくれるか心配した」と語ったとあったのに励まされて読み終えることにした。

忘却による平和か、記憶の覚醒による対立かが主題である。

そして、6世紀のイギリスのブリトン人とサクソン人の混住のなかから蘇る記憶の覚醒による対立の構図が「忘れられた巨人」そのものである。

同時に、忘却も覚醒も超えて死によって隔てられる個人たちがいる。

隠喩として日本と世界の政治的関係、イスラムと世界の政治的関係に当てはめようとすれば、どうしても無理があり、そうした感想は述べにくい。

むしろ、最終章に示された二人の別れのイメージこそこの小説の優れたところである。入り江の手前の松の木の下に、冥界の島に人を渡す船頭が佇んでいる、そこに雨に濡れそぼちながらもうすぐ別れる二人が馬に乗って息絶え絶えに現れる。

日本の能の一場面を思わせる。

冥界の島はたくさんあり、どの島も多数の魂で満ちているが、一つ一つの魂は自分だけがそこにいるように感じている。二人の魂が一緒にたどり着くことは此岸にいるものの幻想に過ぎないし、二人がもっとも重要な思い出を共有することが条件と信じられているのも無意味なのだ。さらにいえば、もっとも重要な思い出を共有することなどは本当はないことも、別れのときに明らかになる。むしろ死による忘却だけが人をその残酷さから救い、無常感と希望が一つになる。

同じテーマを形式を様々に変えて追求する姿勢は平野啓一郎と似たものを感じるが、社会的視野は平野のほうが広い。

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