人生が二度あれば
午前の検査単位の合間に障害者自立支援審査会の資料を読む。
全前脳胞症(13トリソミー) の人の記録など読むと、岐阜山中の心中事件の記録を机の底から取り出して読む柳田國男のことをふと思い出す。
柳田國男にとっては生き残った男に恩赦を適用するかどうか決めるという切迫した事情の思い出があったのだろうが、僕が資料を読んでいるこの人にはいままさにケアに精力を注いでいる多くの人がいて、その細い細いわき道として僕のところに10ページ程度のレポートが来るだけのことであるから、僕の役割などないに等しく、柳田國男との立場の違いは歴然としている。
ないに等しい自分の役割はそれにふさわしく淡々と果たせばそれでよいのだが、読んでしまえば僕の人生にも変化は生じる。
そのうえで僕が僕固有のこととして何を知らねばならないか、あるいは知ってこなくてはならなかったかと考えると、途方にくれるのだが、考えることは続けていこう。
それにしても、もう一回人生をやり直せればいいのにと井上陽水の唄のようなことも思ってしまう。
そういえば、あの唄に出てくる、今死んでいいほど年老いていると描かれる歯科医の父親はなんと満64歳(唄のなかの時間はある年の1月と特定される)なのである。僕と一つしか違わない。
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