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2015年6月 7日 (日)

言葉はむしろ暴力性が強い

集会中にもかかわらずシェスタの時間を経過中。

集会挨拶でうまく自分の思いを届けられなかったことが心残り。
そういうことへのこだわりを持つことが醜いという趣旨の講演に慰められる。

言葉は慰める力より暴力性の方が強く、慰める力はむしろ非言語的コミュニケーションの中にあるという示唆に考えこまされる。

ソ連のチェコ侵略を契機に書かれた加藤周一の代表的な文章「言葉と戦車」も、言葉は戦車ほどにも暴力的だと読めなくはないだろう。

それはそれとしてサポルスキー「サルなりに思い出す事など」みすず書房2014を集会の会場に近い紀伊国屋札幌店で簡単に見つけられたので今夜読むのが楽しみである。

最近の自分に鬱的傾向が強い原因は、手(脳)に余る社会科学的な書物を噛み砕く必要に迫られ続けているからだという気がする。コンラート・ローレンツ「ソロモンの指輪」のような気楽な科学読み物あたりを読んでいる時が一番幸せな時間だが、サポルスキーのこの本もきっとそういうものだという予感がする。

思い出すに、ローレンツから教えられたのは、水に落ちた幼獣を自らの命を顧みずに助ける行為は人間に限らず霊長類には普遍的に見られることで、人になる以前からの僕たちの生物学的種としての本質だという、証明のない断言である。

本当にそういう本質が人間にあるのか、あるとすればマルクスはそれをどう言っていたのか、というのが僕の30歳ごろの思想的出発だった。鈴木 茂、尾関周二、竹内章朗の書いたものを行ったり来たりしながら考えていた。

そんなことを思い出しながら、アジアの生命倫理思想を主題にした講演を聞いていると、孟子に「人にわかに孺子のまさに井に入らんとするを見れば、皆怵惕の心あり」「無怵惕惻隠之心非人也。(じゅってき そくいんの心なきは 人に非ざるなり)という言葉のあることが紹介されていた。

孟子も僕と似たことを考えていたのだ。

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