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2015年6月 8日 (月)

臨床倫理の小講義を反省する

講義が終わってしまったあと、「しまった、あの部分はこう説明すればよかったのだ。もう一歩だったのに。準備中は視野が狭くなって、A、B、Cの違いは見えても関連はみえなくなるからなぁ」ということは僕の場合よくある。

昨日、臨床倫理入門の15分間小講義に挑戦したのだが、その中で「倫理推論のアプローチ法の三つ」という一枚のスライドを作っておいた。

①原則中心主義・・・代表的なのはビーチャムとチルドレスの4原則「自律、善行、無危害、公正」に照らして判断する。原則間の矛盾が倫理的問題として意識されているはずである。

②格率(教訓)主義・・・裁判で言えば「判例主義」。過去の類似事案の見本的な解決方法を参照する。

③物語主義・・・過去の決まりにとらわれず、共感と想像力によって全関係者の持つ物語を総合して判断する。

そして、物語主義を採用すべきだと言ったのだが、これが自分でも分かりにくかった。

実はここには、EBMとNBMの間の関係と同じ関係がある。

人間社会の長い歴史の中でエビデンスを得てきたような倫理の「原則」や「格率(教訓)」という光も、個々の事例に適用するには、関係者のナラティブ=「物語」という厚い大気の層を通らなければ判断という私たちの行動が拠って立つ大地には到達しないのだ。

EBMもNBMと合体して初めて臨床の現場の行動指針になりうるというのと同じだ。

これを言えば、なぜ臨床倫理において「物語」を格別重視するかという説明が分かりやすくなり、関係者個々の「物語」を読み取る力を「文学やドラマで不断に学んで行こう」、それは一言で言えば「文学的力を養おう」ということになる、という呼びかけが理解してもらえたのに。

ところで、加藤周一さんはある講演で、老人らしく自己撞着した発言をしたことがある。

大略「人生を考える行為を文学といいます・・・文学を読まなければ人生は分からない」 だとすれば、文学の一行を読んでない人も人生を真剣に生きていれば、文学を実践しているということになる・・・・しかし、文学を読まなければ人生が分からないとは???

実は、別にこれは自己撞着なんかしていない。

文学的センスが生まれつき備わっている人は、学ばなくても人々の「物語」を読み取ることができる・・・・しかし、大半の人間は先人の読み取り=文学から学ばなければ「物語」に行き着かない、ということである。

さて、それでこのスライド一枚の失敗は僕の中で解決したが、次のことを一枚のスライドで説明しようとしたのはあまりにも無理があり、僕の昨日の躓きの原因となったのである。

臨床倫理の三つのスタイル

①功利主義・・・これは臓器売買を買い手の金持ちにも売り手の貧困者にも同じ量の大きな効用があるとして肯定してしまうのでダメ

②相対的倫理主義・・・これは多様な民族文化の尊重ということだが、民族の中も一様ではないという無理があるし、突き詰めれば、各人各様の生き方全てがOKという思考停止になってしまうのでダメ。

③ロールズによる「公正としての正義論」にもとづいた「集団による熟慮」と「反省と実践の繰り返し」・・・やっぱりこれでなくちゃ。

全日本民医連の医療倫理委員会に席をおいて7年間、少しづつ勉強してきたことの集大成を15分で話さなくてはならなくなった自分に同情しよう。

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