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2015年5月 3日 (日)

医療共同体

「医療は患者を含んだ多職種協働の場としていまや『医療共同体』のなかで行われるものになっている。だからその共同体にふさわしい倫理が形成されるのだ」という文章をあるところで書いた。

そうすると、民医連には「(患者と医療従事者の)共同の営み」という用語はあるが「医療共同体」などと言う言葉は存在しないからこの部分は書き直す、あるいは削るのが良かろうという意見をもらった。おそらく、この文言は消える運命にあるのだろう。

少し前のことなのだが、それを今朝思い出して、このエピソードは、そうとは意識しなくてもやはり硬直した官僚主義の表れだろうと改めて感じた。一歩間違えると小説「1984」のような言葉の統制になるかもしれない。

...

ただし、「医療共同体」は僕のオリジナルではない。種本がある。

ミカ・へスター編「病院倫理委員会と倫理コンサルテーション」勁草書房2009年という本がそれである。

まるで教科書のような無味乾燥な題名の本だが、その内容は意外で、左翼的なアメリカの存在をうかがわせるようなものだった。

「医療共同体」という言葉は第12章「病院医療における分配的正義」に出てくる。

その章から僕が学んだのは、民医連内部で倫理活動を盛んにすることだけを考えていてはだめだということである。

いまよりもっと普遍的な立場で、地域の世間一般の病院倫理のあり方を考えて、それから自分の病院の問題に帰ってくるような思考方法が必要なのだ。

そうしなければ、「限られた数の差額ベッドをどういう優先順位で患者に提供するか」というような問題を、医療倫理上当然の課題と考えるところに堕落するか、逆にそれを考えざるをえない立場の人をこの世にいないものと無視してガラパゴス化するかということになる。

それを遂行するうえの前提となる倫理観があり、その中では富の分配をめぐる正義も含まれているというのである。

臨床倫理も、しっかりグローバルな政治経済の文脈の中に位置づけられなければならないということだ。

それがなければ、権力をかさに来た者が最大の資源を獲得するという「強者の論理」すなわち「クラテリズム」に医療も屈してしまう。

そのときの大前提が「医療は協働の場であり『医療共同体』をなしている」という認識である。

日本で広く認められている宇沢弘文の「医療は社会共通資本」説とほぼ同じ考え方である。

だからこそ特に医療資源の公平な分配に関する正義の原則が倫理的な意思決定のうえで重要になっている。
病院倫理委員会は「強者の論理」や営利主義的傾向に抵抗する最強の砦にならなくてはならない。

たとえば医療資源がはなはだしく不足しているという状態では資源分配の原則が必要である。
そのためには「強者の論理」を合理化する最大多数の最大幸福という功利主義とは一線を画す考え方が必要になる。
もっとも困難な人の救済が何より優先する。それは民医連の「もっとも困難な人々の立場で考える」という姿勢に共通するだろう。

この第12章も、マーティン・ルーサー・キングの言葉「どんな場所にある不正義も、あらゆる場所の正義の脅威だ」を最後に引用し、世界の地域を問わずプライマリ・ケアの欠乏のため人が死亡するという不正義と闘わなくてはならない、その闘いの組織こそ病院倫理委員会の真の任務だとしている。

アメリカの医療倫理は、アメリカにまともな左翼的潮流があるということを示す場になっているということが言えないだろうか?

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