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2015年1月 6日 (火)

箕岡真子「認知症ケアの倫理」ワールドプランニング2010年を読みながら

箕岡真子「認知症ケアの倫理」ワールドプランニング発行2010年を読みながら

 

○認知症患者の「その人らしさ」を尊重する、とはよく言われる言葉だが、その使われ方の軽さに辟易している。

容易には感知できぬはずの「その人らしさ」の代わりに、ケアする側の逆転移をそう呼んでいる可能性が高いのではないか、

「その人らしさ」とする根拠は、ケアする者が過去に関わった人との顔や声の類似にすぎないのではないか、と。

カンファレンスで知恵を集めるといっても、職場には隠微な力関係が存在して、忌憚のない意見交換はない可能性が高い。

言ってみれば、都合の良い幻想としての「その人らしさ」である。

○しかし、それでいいのではないか、それしかありえないのではないか、というよりも、実は「その人らしさ」は僕が思うより現場では、家族とも協力して、それなりに的確に捉えられているのではないかという反省も同時に起こる。

僕の感情的反発は、僕のエリート意識の表現に過ぎないのかもしれない。経験を積んだ医師でなければ、患者の生物ー医学ー心理ー社会的全体像を捉えることは出来ない、加えて家族は自分の利益しか主張しないという偏見も混じるような。

○この反省に自分が傾くのは、「理性的思考・合理的行為が出来るものにのみ人格があるのであり、それを失えば人格として扱われる権利がない」とするエンゲルハートやピーター・シンガーらの「パーソン論」をどう否定するか、ということに関係があると思ったからである。

「IQが一定以下の者は、人間=ヒューマン・ビーイングではあっても、人格=パーソンではなく、他人に臓器を提供するだけがその人間の価値である」とする考え方を基礎に脳死臓器移植を肯定する「パーソン論」をどう克服するかが一時期の僕のテーマだった。

「パーソン論」でも「親しい家族がいて、その存在に家族が彼の存在に意義を見出している」ような場合には「準人格」として位置づけられ、脳死臓器提供の対象となることを免れるとされている。

もちろん親しい家族ももういなくなった、認知症で寝たきりの独居老人は、その「準人格」でさえない「非人格」とされる。

だが、どのような人も愛着を持ってケアする人や社会が必ずある。そのケアする者や社会がその人の存在に意義を感じれば、「パーソン論」においてさえ、「準人格」の地位は保障される。

ここで「非人格」の存在を主張するパーソン論は一応破綻する。少なくとも僕の中の「パーソン論」はそうである。

○人間がどのような状態であろうと平等にケアする人や社会があるべきだとするとき、ケアする側の「ケアしなくてはならない」という決意こそが最も本質的なもので、その表面的なありかたが経験の上に立つ「逆転移にもとづく歪んで軽い『その人らしさ幻想』」であろうとなかろうと、どうでもいいことで、むしろケアが継続されるためには、おのずと幻想は解体されていくはずのものである。

○最も重要なのは、どのような人でもケアしていこうという社会の決意はどのようにして生まれ、どのように継続・発展していくのだろうかということである。

生まれつき「社会脳」を誰もが持つように進化してきた人間の本能だろうか。

それはこれまでは普遍宗教として表現されてきたが、20世紀の2回の世界大戦の経験から世界政治的課題になった。

○人間の社会の価値が、さまざまな個人の能力の発揮の平等のみに基づくのでなく、すべての個人の「安心」の保障もその必須部分になるという転換も、別に遠い将来の人間の歴史の後史に至らなければ起こらないわけでなく、超高齢社会の今に起こるべきものである。

*精神科の医師に聞くと、このワールドプランニングと言うのは、その名前から想像するような怪しい出版社ではなくて、日本老年精神医学会の出版部門であるらしく、この本自体も1910年出版時は同学会内で大きな反響をものらしい。 *別のところで、この文章によせられたコメントはここでぜひ紹介しておきたい。 量 吉永 「センサーマットをしたら、「僕の人格は何処にあるのですか?」と言って亡くなった夫が思い出されました。息子からは「母ちゃんは妻としてではなく看護師として父ちゃんに接しているよ。いいのそれで・・・」と言われ愕然としました。子供たちのほうがはるかに夫のQOL向上には上手に立ち向かえたように思います。多分、損得勘定や時間的制約、後先考えずに今に全力を注いで接する事が出来たからかなぁ~。私には二心、計算があり接していた。理解できないと思えないから・・・。あらためて考えさせられました。」

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