「患者中心の医療」;第3コンポーネント「共通基盤を見つける」
#1
32歳のシングル・マザーであるタビタは教員助手のパートタイマーとして働きながら、7歳、9歳、13歳の3人の子どもたちを育てるという多忙な毎日を送っている。
しかし、氷の上でただ滑っただけで手関節を骨折し、大きな手術をしなければならなくなった。右腕全部がギブスに包まれて動かせなくなり、フランケンシュタインのようにピンがあちこち飛び出している。
彼女の生活は暗転した。日々の義務が果たせなくなって、子供の世話もできず仕事もできなくなった。
治るのに時間がかかったし、痛みも続いた。
いつしか、治るという自信や希望も試練の時を迎えていた。
タビタは自分が人間でなく「病気」というものに格下げされた気がして言った。「診察の予約をして自分の腕を運んでいく以外に自分の役割がない」
自分自身の治療やリハビリにかかわる決定において自分が消され排除されているように感じた。
腕が障害されるのにまったく平行して、まさにそのことだけによって、心配事や希望をきちんと口に出す能力が低下して行った。
「自分自身の健康や治療に関わる何者かに自分も入れてほしいという気持ちを表現できなくなった。それに、先生は私のこんな気持ちを評価もしていなければ理解もしないないようだ」
タビタと主治医の間のこの深刻な行き違いは「共通基盤を見つける」ということに失敗したことから生じている。
タビタはのちに振り返った。「先生には私が心配していることや、質問していることの背景に何があるかについてもっと理解してほしかった・・・だけど、どの医者も私が必要としているものは何かと尋ねもしなかった」
#2
内分泌科のオブライエン医師が腎不全治療の選択肢をざっと説明したとき、64歳のメアリーはまるでうれしいかのように微笑んだ。しかし、彼女は透析を受けるつもりはまったくなかった。1週間に3回も機械に縛り付けられるなどということはメアリーにとって耐えられることではなかった。そんなことをするくらいなら、穏やかに威厳を持って死なせてほしいと考えた。
メアリーは病気がどんなに深刻かを認めるときの怖さから自分を守っていたといえる・・・・透析について話すことも怖がったくらいだ。
オブライエン医師が彼女の混乱した気持ちの一端に触れることができるようになるまで、彼女は腎不全の治療について話し合う気にもなれなかった。
メアリーが迷っているようなのに気づいて、オブライエン医師は言った。
「気持ちのほうは違うんですね。この腎臓のトラブルについてあなたがどうしようとしているのか教えてくれますか」
オブライエン医師の意外な出方に防御をはずされて、メアリーはしばらく黙ったのちに、答えた。
「病気は少しも好きじゃない。しかし、これまで病気があってもうまくやって来れたし、これからもできる限り切り抜けていくつもり。いやな機械に縛り付けられて最後の日々を送る覚悟はできていません」
オブライエン医師は答えた。
「ええ、自立していることは何より大事ですし、私が何をお勧めするにしろそれを大事にしなきゃ行けませんよね」
メアリーはこくんと頷いた。「そのとおりです、オブライエン先生」
実は、治療の全行程のゴールについての同意こそ、治療計画の第1段階なのである。
透析が彼女の意志に基づく必要があるかぎり、メアリーは透析を受け入れるかもしれないし受け入れないかもしれない。もし、透析が幾分でもQOLの改善に役立つと思えたら、彼女は長期間の透析の不便や苦しみを受け入れるだろう。さきざき透析が必要になったときには、医者とメアリーは、自立、QOL、余命のよしあしの両方について検討しようとするだろう。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 雑誌 現代思想 6月号(2016.06.04)
- 内田 樹「街場のメディア論」光文社新書2010年(2016.05.11)
- 「『生存』の東北史 歴史から問う3・11」大月書店2013年(2016.05.10)
- デヴィッド・ハーヴェイ「『資本論』入門 第2巻・第3巻」作品社2016/3 序章(2016.05.04)
- 柄谷行人 「憲法の無意識」岩波新書2016/4/20(2016.05.02)
コメント