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2014年11月22日 (土)

デビッド・ハーヴェイ「〈資本論〉入門」作品社2011:第11章本源的蓄積と「略奪的蓄積」

当院最高齢記録の当直の夜の読書

最近、これほど面白く読んだ文章は少ない。

ぼんやりとそうではないかと僕が考えていたことが、きわめて明確に述べられている。

何が論じられているか手短に言うには、少し頭を冷やさないといけない。

マルクスが、資本主義の誕生時点の一過性の凄まじい暴力行為として本源的蓄積を歴史の彼方にやってしまったのは誤っているとして、デーヴィッド・ハーヴェイはローザ・ルクセンブルクの主張に賛同している。

マルクスが資本論第1巻で詳しく分析した、自らの価値以上の価値を生産する労働力という特殊な商品に依存した相対的に平和な資本の拡大再生産と同時に、国家権力を利用した暴力的な本源的蓄積=略奪的蓄積は一過性のものではなく、営々と続いている。

特に低成長が避けられなくなった今日、本源的蓄積=略奪的蓄積の方が、資本主義の主流になっている。

これまでは主として資本主義の周辺部分で継続されてきた本源的蓄積=略奪的蓄積が、いまや資本主義の中核部分で再度展開され始めたことを新自由主義というのである。

米軍基地や原発用地、国家戦略特区、新都市建設用地(1990年代のソウル-460ページ)という形で生活空間や環境を奪い、教育や医療を民営化し、大量の労働者を非正規雇用に陥れることは、16世紀イギリスでの共有地(コモンズ)の暴力的囲い込みやその後のアメリカやカリブ海地域の奴隷制とどこが違うだろうか。これこそが現代の本源的蓄積=略奪的蓄積なのである。

問題は旧来のプロレタリア勢力と、本源的蓄積=略奪的蓄積に抵抗する勢力が反目しがちなことである。これはかならず有機的に統一出来るはずのものだ。資本主義の搾取、略奪形態の2種類はよく考えると本質的に同じだからである。

こうまとめてみても不十分さは免れない。本文自体を何度も読んで見る必要がある。

頭が冷えたら、「患者中心の医療」第3版の続きを読まないといけないし・・・。

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コメント

野田さん

お久しぶりです。いや、ほとんど毎日、野田さんのブログ等は読ませて頂いてます。

実は、昨年の野田さんのブログにも書かれていたグローバリゼーションについて、コメントしようと考えていたのですが、やはり、ある意味でグランドセオリーに関するテーマなので、世界経済や資本主義の展開について、私の考えを頭の中で繰り返してまとめている最中です。

基本的には、私もデビッド・ハーヴェイの10年にわたる考え方を基本にしています。と言うよりも、1970年代には日本農業とアジアの農業問題。1980年代にはラテンアメリカの失われた10年。そして1990年代からのアメリカが主導したグローバリゼーションの中で、私は実際にフィリピン、タイ、パラグアイ、チリ、アルゼンチンの「開発の現場」にいました。その中で、どのように世界を説明できるのか?という問題に直面しました。つまり、マルクス主義から出発した自分の考え方を修正するのか否かということでもありました。

やはり、ラテンアメリカの80年代、失われた10年を経験して、同時期のアジアの権威型開発の「成功」を考えると、今から考えると新自由主義そのものなのですが、当時は市場原理を基本としてマルクス主義を修正せざるを得ない斬新なものに映ったり、ポストモダンの社会学的な方法論が本質的に見えたりしたものです。

もちろん、仕事は仕事。開発援助というものは、先進国なりに開発途上国が市場として順調に発展して行くことの手助けですから、そこにマルクス主義的なものを持ち込む必要はありません。ただ、自分の仕事を含めて、途上国で進行する開発や人々の暮らしというものをきちんと理解しておきたいと考えたからです。

結論的には、マルクス主義的な世界観こそが世界を説明できるもの。途上国の変革主体の変換や形成の方向を途上国の人々と私がシェアできる、基本の思想であると考えています。

やはり、レーニン「帝国主義論」が現在進行中のグローバリゼーションを考える基本です。19世紀的植民地収奪と20世紀帝国主義、戦後の新植民地主義、そして1990年以降のグローバリゼーションにおける途上国での搾取の形態は、途上国での国民国家の成立を契機として、まったく違うものであるということです。レーニンの指摘した資本の移転の先に、途上国の国家形成があり、初めてグローバルな搾取が等価交換を装って世界的に成立できた。

長くなりますので、まとめれば、それは本源的蓄積の繰り返しというよりも、戦後の途上国のナショナリズムで新・旧植民地主義を維持できなくなった先進国資本が、資本そのものを途上国内部に移転していくこと。途上国の脆弱な民族資本は解体され消滅するか、圧倒的な技術の優位性を誇る多国籍資本に繰り込まれる。あるいは、インドのタタ財閥のように共存する。1970年代が始点です。

それは政治的には先進国の階級対立の緩和と途上国の前近代的な権力の消滅を意味しました。途上国とロシア、東欧「社会主義」内部での一定の民主主義化の条件を成立させます。デビッド・ハーヴェイが描く1980年代から90年代初頭の姿があります。

途上国の誰もが市場原理主義の導入により、先進国と同様の「等価交換」が成立すると考えました。ところが、実際に進められたものは、先進国(あるいは先進国同士の)での等価交換を維持するための途上国内部での不等価交換の進行でした。1990年代、途上国の社会制度(医療や教育)は民営化によって壊滅します。それでも外部から注がれるグローバル資本によって、経済は拡大する。新しいエリート階層が出来上がり、欧米への出稼ぎが常態化します。アマルティア・センさんが潜在能力アプローチを書きます。それは思想としては深い洞察なのですが、開発の世界では、あたかも市場経済にアクセスする手法として活用されました。

90年代後半、途上国地域において市場原理により不等価交換があたかも等価交換であるかのような見せかけが行われたときに、グロバリゼーションは先進国の労働者階級に襲いかかりました。途上国における商品の交換価値を基本として、世界的な等価交換を実現せよということ。

私は、グロバリゼーションが資本の世界的な回転速度を速めて利潤率を確保する体制というよりも、1980年から90年代に成立させた途上国資本との一体化を前提として、次に国民国家の垣根を取り払うことにより、途上国の交換価値(労働力)を基本にした世界的なレベルでの不等価交換の進行のように思えるのです。

本来、比較などできないものを、あたかも世界的に交換される商品であるかのように労働力が比較され、等価交換が成立するというイデオロギー。グローバリゼーションの姿だと考えます。レーニンの帝国主義論で描かれた世界の以前と以降とは、世界システムが異なる。荒っぽい考え方ですが、とりあえずの私のスケッチです。

投稿: | 2014年11月23日 (日) 01時53分

丁寧なコメントありがとうございます。

ちょうどハーヴェイの「ニュー・インペリアリズム」青木書店2005を買ったばかりなのですが、読み取る方向を教えていただいたように思えます。偶然に手にした本にすぐ影響されてしまうのですが、ゆっくり考えてみます。

センと市場の関係では、ごく最近読んだ「協同組合 未来への選択」での中川雄一郎さんの引用の中でも、市場経済の存在を前提にした平等と公共政策の必要性が強調されているのに僕としては賛同したですが、以前も指摘していただいたように、それが途上国では新自由主義と親和的であり、けっして歓迎すべきものでもなくなるなのは疑えないことだとも思います。

投稿: 野田浩夫 | 2014年11月23日 (日) 19時44分

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