« 始まりには愛があったといいきる | トップページ | 2014.10.25の医療生協理事会挨拶   »

2014年10月22日 (水)

ゼロになる身体

今日は少し不思議な気持ちだ。覚和歌子(かくわかこ)の「ゼロになるからだ」のような気分。いわば、もう自分が死んでいて、透明な脳で日本や民医連の未来を考えているといえば、少し近いかもしれない。

中高年が固定し誤った青年観を抱いて青年に対していないか、という投稿が僕の関わるフェースブックに最近あったが、正直なところそれ以前の話で、 自分の知りたいことを知るのに懸命で研修医を除けば青年層に関心を持ったことがなかった。

それは望ましいことでもないのだが、大学の学部でたった1人の活動家になって以降、他学部や学外の活動家からは無視されたり、心が通わなかったこと続きだったことの反映だろう。

その一例を挙げると、卒業後、25年ぶりくらいで当時の活動家が同窓会のようなものを開いたが、僕を覚えている人がいなかった。当時から「全身民青同盟員」のつもりで日々を送っていたつもりなのだが。振り返ると、まるでカルトの一員のように民青同盟員であることを自分の唯一のアイデンティティにしていたことに原因の一端があるのかもしれない。もっと気楽でいたらよかったのだろう。

しかし、「身体をゼロにして」考えていると、すべては青年にかかっているのが、異様なくらいくっきり見えてくる。というより、未来が青年自身の運命だ。自分や配偶者や子どもが戦争で死ぬのも、人を殺すのも、職や家を失うのも、病気になっても医療を受けられないのも、再度の原発事故で難民になるのも。

僕の役割としては彼らが絶望することがないよう僅かでも環境を改善することだろう。その時、いまどきの青年の意識がどう変わっているなど、どうにもできないし、どうでもよいことのようにおもえる。伝えたいことを言うだけだ。

青年との付き合い方のテクニックなど、僕に限っては酒席の話題に過ぎない。

午後になって、今日の気分が、「諦念によってコーティングされた焦燥感」だと気づいた。実はこう言う日の診断・判断は冴える。患者や職員に奇妙な気遣いをせず、無駄話もしないからである。

|

« 始まりには愛があったといいきる | トップページ | 2014.10.25の医療生協理事会挨拶   »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ゼロになる身体:

« 始まりには愛があったといいきる | トップページ | 2014.10.25の医療生協理事会挨拶   »