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2014年10月 6日 (月)

患者の主観世界に登場する役者であることに徹底すること

今朝、「患者中心の医療」第3版第6章 「共通基盤を見つける」を読んでいて心に残ったこと2点。

1:診断することは展望を持つこと、である。不完全・不合理な説明でも、まったく説明しないよりはまし。長期に診断をあいまいにされるのは患者にとって苦痛に満ちている。疑い病名であっても患者・家族は知りたいものだ。

・・・僕自身、患者や家族が質問してきても、数日に亘って「まだ材料が集まっていない」という理由で診断を告げない場合が多かったが、少なくともそのとき考えていることを共有するべきなのだろう。実は、あいまいな話をだらだらして時間を割きたくない、どうせ説明するならズバッと最終的な結論を告げるだけという効率を追求したいという気持ちの口実になっていることが多いわけだが。

...

2:医師が患者の考えや見通し(パースペクティブ)を十分に引き出さないことは、問題を共通認識にすることを危うくする。
 そして、患者が考えた問題整理の仕方に同意できないとしても、医師の説明や治療方法の勧めが患者の視点に沿い、「患者の世界のなかで道理あるもの」であることは最低限の条件である。・・・患者の主観世界の登場人物であることを医師がいくら意識してもし過ぎることはない。

患者の主観世界の俳優であること(自己イメージとしては、先日新国立美術館で見た「印象派の誕生」の音声ガイドのナレーターをしていた東出君だろうか)

よし、今日はこのスタイルで一貫させてみせよう。

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