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2014年9月29日 (月)

退院後も毎日病院にきて看護師にまとわりつく患者

ある必要があって、故額田 勲 先生の「孤独死」岩波現代文庫2013を読み直すと、1996年に大分民医連の大分健生病院で経験された37歳の男性患者の悲惨極まる孤独死の事例が述べられているのに改めて気づいた。158ページ

この患者は糖尿病の悪化でしばらく大分健生病院に入院していたが、退院後も毎日のように病院にきて、顔見知りの看護師たちにうるさいほどまとわりついて話しかけていたのが、ある日から急に顔を見せなくなった。

それが心配になって看護師たちが自宅を尋ねると、猛烈な臭いと汚れの中でとっくに死亡している患者を発見し、しばらく呆然と立ち尽くすほかはなかったという話である。

もちろん孤独死、孤立死の現場は大抵そのようなものだし、それを詳細に描写することは悪趣味でしかなく、場合によっては死者の冒涜にもなりうるわけだが、僕が注目したのは、その後、看護師たちがカンファレンスを開き、退院後も毎日病院に来ていた行動に注目し考察していることである。184ページ。

生活保護費のなかでようやく見つけられた住居が3畳一間で、それが次第に堪え難い汚れで覆われて行ったから、病院に来る以外になかったのだろうというのがその時の推測だった。

実は、こういう患者は相当数存在する。

僕がすぐに思い浮かべたのは、受診するわけでもないのに病院に朝早く現れ、小さな売店に直行して、届いたばかりのパンかおにぎりを買い、作動を始めた待合室の給茶器のそばに座って朝食を取る、その後は椅子に寝そべるように座り、顔見知りが来ると大きな声で会話をするが、話の中身は外来に出てきた医師や看護師の無責任な品定めが大きな割合を占めるという人たちである。

僕は、自分がその人たちがなぜそういう行動を取るのかこれまで考えたことがないのをむしろ不思議に思った。

彼らの噂話に自分が、おそらく澄まして偉そうにしているくせに話せば吃る医者として出て来るのだろうということを不愉快に思っていただけなのである。

背景には凄まじく貧困な住宅環境があり、病院に毎日来ることは、避暑・避寒にもなり、最低限の社会参加の意味もあると考えるべきだったのだ。

最近はいろんな老人施設に洒落た「コミュニティ・スペース」なるものが設けられているが本当に利用されているのだろうか。それに対して、比較的居心地の良い病院待合室は、ずっと以前から、その役割を果たしていたわけである。

田舎に行くと、誰が来てもいいようにという目的で待合室にコタツを置いている診療所を見かけることがある。意識的に待合室をその目的で使おうとして来たわけだ。

ただ、そのとき、施設側としては品の良い老人が集まるのを漠然と期待しているのではないか。少なくとも荒んだ雰囲気を撒き散らす人々が集まるのを歓迎したわけではなかっただろう。

しかし、病院待合室がソーシャル・キャピタルとして働くとき、その需要はむしろそういう人々の中にあり、そういう利用を積極的に捉える必要がある。

民医連の病院が地域にあることの健康上の意味は案外そんなところにある。

一見、無責任な職員品定めも、耳を傾ければ聞くべき批判である可能性が大きい。

「受診されない方の待合室の利用はご遠慮下さい。そういう方用に旧館の片隅にうら寂しく殺風景なコミュニティ・スペースをつくりましたのでそちらをご利用ください」という対処法はまず間違っている。

今、その目的で利用してくれている人の声をこそ正しく捉えれば、そこにもいない人が見えてきて孤独死ゼロに小さな一歩を踏み出せるのだ。

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