雑誌「現代思想」9月号「特集 科学者」を読みながら
この特集は笹井氏の自殺によって、急に読者を増やすと思える。
若い女性のエプロン姿から始まった一事件は、気軽なマスコミの話題の域を破ってようやく資本主義による科学者の支配という本質的な問題を露呈し始めた。
1:一昔前のEBMに関する啓蒙的な読み物を読んでいると、現場での臨床的な疑問の答えが、ネット上で検索できる論文に必ずや存在しているだろうという期待が過大に前提とされている気がする。
疑問にたいして近似的な答えを与える臨床研究の論文をネットで見つけてすばやく治療に応用できることが能力のある医師の証拠だという心理的誘導が自然になされていたのではないか。
しかし、論文の本当の正確さや、その後の新しい考え方への変化の可能性などはその論文をいくら吟味しても分からない。
ここには、権威のある雑誌に載った論文で、一応もっとらしければそれを真実とみなすという、一つの形式主義、操作主義がある。
鴎外に言わせれば、(真実である)「かのように」である。
そこで、こうした能力のある医師は、伝統芸能、例えば茶道などの決まりきった所作によく通じた者に酷似してくる。
それは医療の本質には無関係だという気がする。
では、その他にどういう方法があるか、また、そこで選ばれている治療法は一つの仮説であり、それを患者に実際に適用することで次のより詳細な仮説の材料としているのだ、と言われると反論も難しいのだけど、論文というテキストの中に全てがある、という思い込みを助長することはやめた方が良いとは言えるだろうと思う。
2:かって芝田進午氏などが唱えていた「科学技術革命」とは、科学と新商品生産が直結するようになったことから、科学や大学の市場化・営利化が進行するということであったようだ。
その中で、科学者側が取った対応策は、科学論文の量産と、それが役に立つというジャーナリズム上の話題作りだったようである。
つまりは、商業誌である「ネーチャー」や「サイエンス」への売り込みを図る商人化である。
そのとき、科学論文は真実に触れているかどうかは問われず、仲間内の手続きを踏んでいればよかった。
この動きは、3.11という現代の科学技術体制の決定的敗北後に、そのリベンジ・リコンキスタとして顕著になった。
それは安倍新自由主義政権の「国家戦略特区構想への無定見な擦り寄り」という形を取った。
そして、そういう科学者としての営業活動が成功し、多額の研究費を獲得した者(例えば笹井氏、さらには山中伸弥氏)の中には、実際に商品化に結びつくことに成功し、資本からの利益のおこぼれをもらうものが一定数現れる。
(しかし、利益を生む商品化ということと、人の役に立つということは全く別物である。)
そうならなかった人々はひたすら困窮して行く。
資本による科学者の使い捨てが普通のこととなる。
科学者も非正規労働者も同じ運命の上に乗ったということである。
こうした動向の中で私たちが注意しておくことは2点くらいある。
一つは、新しい枠組みはなかなか芽を出せないので、不正すれすれの話題作りの中で誕生しようとすることもある、ということである。一見インチキにみえても、それはデータを伴わない画期的なアイデアなのかもしれない。その芽は潰さない方がいいのだろう。
もう一つは、市民の側の健全な防衛策として、生命に害をなすような研究不正は法的に規制する動きが現れるということである。
3:コラーゲン、ヒアルロン酸などなど、絶対に役に立たない商品を、生物系の科学者を動員して生産して、巨利を挙げても、それを実体経済と呼ぶべきなのだろうか。
遺伝子組み換え食品などは栄養になるから、立派な実体経済といえるかもしれないが、有害性は否定しきれない。
そんな物しか選択できなくなったら、どんなに情けない生活だろう。それもこれも「科学」と資本主義の融合が誘導したものである。
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