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2014年6月23日 (月)

自助と互助、公助や共助・・・柄谷行人「遊動論 柳田國男と山人」文春新書2014/1を読み直しながら

柄谷行人「遊動論 柳田國男と山人」文春新書2014/1を読み直しながら思ったこと。

柄谷によると、柳田の目指したのは、日本における協同組合、あるいは協同自助の再興または確立であり、現代において、その思想を最もよく受け継いでいるのは、「社会的共通資本」を唱える宇沢弘文だとされる。もちろん、宇沢にその自覚はない。
その辺りを面白く読み返しながら、僕としては、いま、社会保障の領域で問題になっている自助や互助という言葉についてつい考え出してしまう。
協同自助とは、互助のことだろう。自助では暮らしてゆけぬので、互助があるとすれば、社会とは、まず互助のことである。
自助を原理とするといえば新自由主義になるが、互助は社会一般の原理である。
柳田が目指したように、互助=協同自助を協同組合の形でひろげながら、その運動の力で、国家による収奪、資本による搾取をなくしていくことが、僕たちの展望である。
したがって、自助・互助・共助をなるべく少なくして、ひたすら公助を増やそうというのは、社会保障運動の正確な目標とはならない。もちろん、そんな方針は実際には存在しないが曖昧な気分としては生まれている。
それは自助・互助・共助・公助という、官僚の考え出した平べったい直線的な(二次元の)分類をそのまま受け入れてしまった結果として、生まれている。
肝心なのは、自助の発展や自助の補完が互助ではないということである。
そもそも、自助は互助の否定、社会の否定として、新自由主義者が空想したり、彼等の無理やりな政策として、弱者に強制されているものである。
*その意味では柳田のいう協同自助という言葉は、現代の用語では矛盾を含んでいて、互助に統一したほうが良い。
それにたいして、確固として存在し、発展している互助の側からの要求が国家の譲歩を引き出して公助を作り出すのである。
国家には公助が無条件で付随しているわけではない。
いっぽう、主に社会保険のことを指す共助は、互助の発展年て公助を引き出す一歩手前である場合もあるし、公助の後退である場合もあるという、ぬえのような存在である。
その程度に立体的に考えて、これらの言葉は使うべきである。

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