平野啓一郎「決壊」新潮文庫2011 初出は2008
今日は、先週からの疲労が強いので、昼間は意図的に可能な限り余計な仕事をしないことにして、、この小説を読み終えることに集中した。おかげで、書類がたくさんたまってしまったので帰るのが遅くなりそうだ。
*平野啓一郎の美文調は他人には不合理に見えても、きっと本人の小説を書く動機の不可欠の一部となっているので、読者は耐えなければならない。その不毛な忍耐の向こうに、彼の小説を読む楽しみがある。
例:「潮騒は、遠近(おちこち)に重なりながら、沖へと向かうほどにこえをうしなってゆき、やがてただ海原の煌(きら)めきへと翻訳されて、彼方の水平線は、紙を折った背のように、斑(むら)なく澄んで、しんと静まり返っている。」
おお、まるで城達也の「ジェットストリーム」みたいだ。
そういえば、城達也のお兄さんであった豆腐屋さんを僕は、この小説の舞台となっている宇部市の僕の病院で看取った。個人情報だが、二人とも故人で、もう古い話だから許されるだろう。
*平野啓一郎は意図的にドストエフスキーを模倣している。それが彼の小説を書く方法論としての魅力の源泉だ。
ヒーローとアンチ・ヒーローの長い対話による対決が必ず小説のクライマックスとされる。圧倒的にアンチ・ヒーローが強い。
*共産主義ならぬ「共滅主義」はきちんと反駁されているか?
不合理、不条理な格差で強固に出来上がっている(「幸福ファシズム」と名付けてもよい)この社会の下層にいて、いつまでも上層の犠牲になり続けるよりは、大量殺人やテロをおこすことで、逃れられない構造から離脱することを呼びかけるアンチ・ヒーロー(この小説では「篠原勇治」)の「共滅主義」の主張は、多くの人の感性を揺さぶるだろう。
それに対して、「僕は家族を愛している」と叫ぶ副主人公 沢野良助の反論は有効な反論として成立しているのか?
どんなに難しく見えても、「この社会に正義を確立することは可能だ」というのでなければ、反論としてだめだったと思う。
*この反論をきっちり展開できないので、主人公沢野 崇は決壊せざるをえないのである。
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