岩田健太郎「主体性は教えられるか」筑摩選書2012
なんて言えばいいのだろう。
医学生や青年職員を育てるということは、実は無理なのではないかと思わせる本だ。
見込みのある奴は最初から自分で考えて動く青年として僕らの前に現れる。
僕が彼に何か教えて、彼がお礼を言ったとしても、彼が僕から学びとったものは、僕の意図とは大きくずれる。
だから、あらかじめ導きたい結論が決まっているようなとき、スモール・グループのディスカッションにしようと、ワールド・カフェ方式にしようと、刹那的な満足感しか産めないのである。
日本の卒後臨床教育にしろ、はやりのチームSTEEPSにしろ、貧しく教育の無いアメリカの青年を短期間に殺人マシーンに仕立て上げる米軍の新兵教育の流用なのだから、用語はいかにハイカラでも、結局は自主性を破壊する方法という本質が貫徹する。
研修医だった自分を振り返って見るがいい。誰も僕を主体性のある青年医師にしようと育ててくれたわけではない。むしろ、早く一人で30人の入院患者をうまく捌ける道具になってほしいという無法な期待をかけてくれただけである。
それでも自分のなかに「自己学習しなきゃならないのっぴきならない渇望」(120ページ)があったから、僕と大脇君(北九州 健和会)は唯一自由になる金曜日の夜に医局で徹夜してポケットノート作りを競っていたわけである。38年の医師人生を振り返ってもあの頃の金曜の夜ほど充実した時間はなかった。いま作ったこのノートさえあれば、あれらの患者の前に出ていけるという純粋な喜びだけが僕らを支配していたのである。
他人のために役立ちたい、優れた他人の言葉を聞きたい、自分で世界の構造を把握したい、世界を変える運動に燃え尽きて死にたい、という渇望は誰から教えられるものでもなく、職場や教育とは別のところからやってくる。それは何らかの原体験に根ざすものだろう。
だから、医師研修のあり方のあれこれを考えることは、僕の人生の深いところにはあまり関係がない、できることはそういう僕を包み隠さず見せることだけだろう、これが僕の読後感である。
読んで得た知識はない。岩田君の悩みや迷いがストレートに伝わって来ただけである。
だから岩田君が影響されている内田 樹の「街場のなんとか」はこれまでバカにしていたが、読んでみようかという気になった。
「あとがき」で「本書を最後まで読んでくださいましてありがとうございます」とある。ほんとうだ。お礼を言われて当然だという気がする。
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