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2014年4月 8日 (火)

臨時往診と死亡診断書、死体検案書

ずっと以前の宇部協立病院は夜間に当直医師と臨時往診担当医師を配置していた。 昼間の臨時往診は普通のことだった。

しかしそのうち、緊急性の低い臨時往診を要求する常連患者が出現して、医師勤務が過酷となったので、臨時往診全体をやめた。

しかし、(在宅医療でおこなう定期往診とは別の)臨時往診を臨機応変にした方がよいと思える事案に最近遭遇した。

ある日の夕方、80歳代で何度も心筋梗塞を繰り返しながら、何とか外来通院していた患者さんの家族から「さっきから息をしていないのだけど、どうしよう」という電話があり、たまたま主治医の僕が外来にいて、それを受けた。

「救急車を呼んで来院してください」と返事しようと思ったが、家が案外近いのに気付いた。午後外来も終わりかけ、患者さんの顔を見る程度は外来を留守にしても大丈夫そうだった。

何も持たず自転車に乗ると10分もかからず、相当の陋屋と言ってよい患者宅に着いた。貧しい家だが程良く片付いており、患者さんは見たことがないほど穏やかな顔で亡くなっていた。昼前に胸が痛いと言っていたとのことだったので、持病の心筋梗塞の再発による死亡として間違いがないように思えた。

こういう時、長年の主治医である僕が往診したのであれば「死亡診断書」を書くのが医師法の当然の決まりである。ここで「死体検案書」等にしてしまうと、宇部市では多くの警察官が集まってきて、検視が始まるが、それは間違っているし、不必要である。

あとで、外来の看護師さんたちが死後の処置に出かけてくれたが、家族は静かな最期を迎えられたととても感謝してくれたそうである。

それから、しばらくして、別の外来患者Aの家族Bから意外な話を聞いた。それはその人Bの友人Cの親Eがやはり協立病院の患者であり、この人Eが自宅で死亡した時に家族Cが救急車を呼び、救急隊が警察に通報して、そのまま自宅で検視となって、警察の嘱託医や警官など大勢がやってきて、家の中がごった返したという話だった。

宇部市では、こういう事態に必ずなる。主治医以外の医師が死後に死亡診断したときはかならず警察の検視の後、立ち会った医師が「死体検案書」を書くという運びになる。

事件性がなければ、警察の検視なしに医師一人の責任で「死体検案書」を発行できるはずだという主張は(僕は法的に正当だと思えるのだが)認められたことがない。

そのとき警察の嘱託医がそっと家族Cに「なぜ協立病院の先生に臨時往診を頼まなかったのか、そうすればこんな不要な騒ぎにはならなかったのに」と言ったというのである。それをEさんのお葬式でBさんは聞いた。

事件性もない病死の検視に巻き込まれて貴重な時間を失った警察嘱託医師の言いたかったことは正当だろう。

そもそも検視立ち合いと「死体検案書」の作成も協立病院の医師がすればいいのだし、その前に協立病院の主治医が臨時往診しておけば「死亡診断書」一枚の交付で済んだはずだ、なぜ臨時往診をしないのだという非難がそこには込められている。

実は、この非難は長年の間警察嘱託医をしている某病院の院長への訪問で、僕が直接聞かされたことでもあったのである。

そこで、外来に訪れた患者さんAの家族Bさんは僕に、「この人Aが死んだ時は先生が必ず臨時往診に来てくださいよ」と頼んだのである。

数日前のことを思い出して「ああ、いいですよ」とはいったものの、24時間病院にいるわけでもない僕が本当は応えられるはずもない。

たまたま「往診なんかに行けるわけないだろう」という医師が応対して、大きなトラブルになるかもしれない。

そのためにも、できれば臨時往診のルールができたらどんなにいいかと思ったことだった。

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