大沢真幸「生権力の思想」ちくま新書2013/2
ミシェル・フーコーの提唱した「生権力」という概念を用いて展開した現代社会論だと、前書きに書いてある。
最初に読み始めた時、第1章からして何が書いてあるのかまったく分からなかったので、途中で読むのをやめた。
そのあと、しばらく「ケアの倫理」を学んでいて、何気なく、もう一度読み始めたら、実に簡単で、しかし、あまり実のないことが書かれているのに気づいた。
古代ギリシアの「生」には、①奴隷、乳幼児、老人、障碍者などの生を念頭に置いた生物学的に生きているだけの状態、ゾーエーと、②一人前に社会的生活をしている市民の生、ビオスの区別があった。
この状態で権力はビオスに向けられていた。これは、近代まで続いた。ロールズの正義論はこの延長線上にある。
しかし、現代になって、「一人前に社会生活をする市民」の作る社会という像は崩れ 、全ての人間が労働者か、兵士かの生物学的な生、あるいは社会の余計ものの無能者の生として、数えられるようになった。
これはナチス体験によるものだろうと僕には思えるが、その時、権力はその生、ゾーエーに向かって行使されるものになる。これを、特に生権力と呼ぼう。
この権力は最初、個々の生を労働者、あるいは兵士として厳しく規律訓練していた。これは日本では明治時代に始まる義務教育である。その時に採用されたのが、一望監視装置パノプティコンである。
ところが、いつ頃か、権力は規律訓練をやめ、ひたすら管理に徹するようになるが、その管理はかってのようなむき出しの監視でなく、自動改札機型の、機械的だが、徹底的に自己責任を求めるものになる。
この変化が不思議だ、不思議だ、と大澤真幸は騒いでいるのだが、資本主義の理念が旧来のリベラリズムから新自由主義ネオリベラリズムに変われば、それは当然生じるのではないか。
非正規労働に苦しむ若者が、自分の困難 の原因を、正当に社会に求めず、自分のせいだと思い込まされている不条理は、何も不思議のない、現代の特徴である。
ケアの倫理は、この歪んだ権力の拒否のために生まれた、と言ってよい。それは、ロールズの正義論そのままでは解決できないことだからである。
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