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2014年3月25日 (火)

切れ切れの読書のなかから・・・ボンへッファーの引用

これは、何かを書くというほどに自分の中で熟していることではないが、昨日3月24日は亡くなった妻の58回目の誕生日であり、僕自身も楽観的に100歳まで医師を続けると言っていることが、いつ突然途切れるかもしれないという気がしているので、書き留めておこうという気になったことである。

妻が亡くなる直前に買い込んでいた本の中に「ボンヘッファー説教全集」があったのだが、僕の方はキリスト教には暗いため、それがどんな人だか分からないまま、背表紙だけ眺めていた。

しかし、最近になってシモーヌ・ヴェイユを読んでみようという気になり、まず「重力と恩寵」という本を手にとってみたものの、全く歯が立たず、改めて平凡社ライブラリーにあるロバート・コールズの「シモーヌ・ヴェイユ入門」から始めることにしたということがあった。

その本で、初めてボンヘッファーという若くしてナチスに処刑されたドイツの牧師がヒトラー暗殺計画を立てた人だったことを知った。この本ではある意味、彼と彼女を対照的に描こうとしていたのである。そこで、僕はいずれ、妻の遺した説教集も読むことになるだろうと思った。

それは、それだけのことだったが、昨日になって、たまたま雑誌「世界」に連載されていた宮田光雄「≪ぺスト≫の時代にどう向き合うかーいま、カミュ『ペスト』を読む」の最終回(2014年4月号)にもボンヘッファーが引用されていて、それを読んで、僕も少し考え込んでしまった。

実はその雑誌を職場に忘れてきて、今手元にないなかで、さっきまで帰宅の自転車の上で反芻していたことを記録しておこうとしているのである。

記憶で書いているのでまったく正確ではないが、ボンヘッファーによると、かってこの地球を選んでイエスが僕たち人間の姿をしてその30年あまりの一生を僕達と一緒に苦難のなかに過ごしてくれたということ一点だけで、僕たちがこの地球に生存していることに意義があると保証されたことになるというのだ。

だが、それ以上のことは何も明らかでなく、僕たちが生きていく意味は自分で探す以外にはない。探せば見つかるということをイエスが保証していることだけを頼りに、僕たちは一人で暗闇を歩いていかなければならないはずだ。

ちょうど、深夜の坂道を自転車で登りながら考えていたので、その思いは僕に強く生じた。

折しも同時に正解の得ようのないテーマを扱った倫理学の本も平行して読んでいたことの影響もあって、進みながら闇の中に迷って立ち尽くしている、ついに何も見つけ出せないままに終わりを迎えるということもあるという予想も感じられた。おそらくはそちらの可能性が高く、そして、それは亡くなる直前に妻が感じていたことだろうと思い至ったときにちょうど家の玄関まで辿り着いたのだった。

*ここで、ほぼ正確に引用しておこう。雑誌「世界」2014年4月号299ページ

「われわれは、この荒れ狂う時代の中で、そもそも生きることに何故それだけの価値があるのかという意味を見失っている。・・・だが、本当はむしろこうなのだ。大地が人間イエス・キリストを担う資格を与えられたのだとすれば、そしてイエスのような人が生きられたのだとすれば、その時、そしてただその時のみ、われわれ人間にとっても生きる意味がある。もしイエスが生きられなかったとすれば・・・(身近にどんなに尊敬し愛する人がいたとしても)・・・われわれの生は無意味になってしまう」

この引用が、どうして僕の勝手な言葉に変換されていくかは自分でもよくは分からないのだが。

聖書などは全て人の作り物だとすれば、神はただ一回だけイエスの形で人間の前に現れ消えて、再び現れることはなかったが、人間は、それ以降そのことを原体験として行きていかなくてはならなかったということになるだろう。それがどういう意味を持つのかを考えることが人間の勇気の源泉となるというたちばもあるのだろうか。

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