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2014年3月23日 (日)

廣西元信「資本論の誤訳」こぶし文庫 2002年復刻、初版は1966年

友人のTさんから何度も勧められながら、トンデモ本のように思えて注文しようとしないで来た本。
先日、東京駅北口の丸善で偶然見つけてつい買ってしまった。

1936年に早稲田大学ロシア文学科を卒業し、 短い兵役の後は空手の師範として一生を過ごしながら、右翼を自称しつつも凄い語学力でマルクスを読み続けた在野のマルクス主義研究者の、極めて興味深い著述である。

独裁制と訳されていたdictatorship の訳語を、日本共産党が 「執権」と改めるはるか以前に「支配権、指導的立場」と適切な訳を当てるよう提案している。どうじに、いくら「民主共和制」の形をとっていても、ブルジョワ国家の元でのdictatorshipはブルジョワによる独裁の一変形に過ぎないという、現在を見通した解説も付している。
この辺を読むと、この本が不破さんの様々な共産党の伝統的な理念改変の種本なのではないかという気もしてくるのである。(134ページ)

面白いことの中には、皮肉屋のマルクスが飛ばした冗談「民主共和制は、階級支配をめざすプロレタリアートが、引き継がなければならない害悪のひとつ」をまともに受け取って、プロレタリアート執権の元では民主共和制をとってはならないなどとしてきた伝統的左翼に誤りの指摘もある。よくそんなことを間違えたものだと、後知恵ながら思う。(48ページ)

廣西さんの中心的主張は、株式会社の変化が資本主義から社会主義への変化がそのものだということである。株主による生産手段と生産物の共同所有の外被を被った実際のところは個人所有という状態から、株主を無力化して経営者と労働者の真の共同所有に変わり、やがて所有ということが意味を持たないほどに豊かになった時代になると、労働者の生産手段「占有」だけが残る、それこそが社会主義の実現だということである。そういう意味で、社会主義はさまざまな形を取る真の会社群によって構成される社会のことである。

そして、この変化のなかで、国家所有はごく一時的な現象でしかないということが強調されるのは、この本が書かれた当時、ソ連がまだ存在しており、社会主義とは企業の国有化だと思い込んでいる日本社会党などがいたからである。

この過程では、以下の仮象あるいは現象あるいは外被から、実体あるいは本質への変化が生まれてくる。

労働者を支配する組織形態であるコンビネーションcommbinationから、平等につながりあう協同組合的組織アソシエーションassociationへ。

*じつは、この双方を、「結合」という同じ言葉で訳すことが、マルクスの誤訳の第一なのである。

縦に直線的directな人間同士の関係(支配)から、横に直接的immediateな人間同士の関わり(共同)へ。

所有propertyから 占有possessionへ。・・・人間は地球を所有などできるのだろうか?ごく限られた時間、地表や海水面をを占有するだけではないのかという、人間と自然の関係への畏れが現われた議論で、好ましく思えた。

そのほか、僕個人としては、価値と交換価値の関係を明快に解いているのも印象的だった。価値は生産物に投入されている労働力の量としていつの時代も決定されているが、交換価値は商品交換のある時代と社会において初めて生じる価値の一形態である。価値×α=交換価値という式を考えると、αがゼロの場合が大昔と未来にはありえるのである。

マルクス主義学者の様々な人が誤訳を批判されているが、著者がそういう日本のマルクス主義の不完全さをこえて、真のマルクス理解に肉薄してるのは確かなようであり、どうしてこの人が右翼だと自分で言うのかよく分からない。社会主義への接近を最も願う人だったように僕にはおもえてならない。

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