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2014年3月 4日 (火)

平野啓一郎 「私とは何か」――「個人」から「分人」へ-講談社現代新書2012

藤沼康樹先生に教えられた本。

自己責任論から青年が解放されるのを手助けしてくれるだろうということで感想を書いておくことにした。

個人individual とは本来分割(divide)できないものという意味。

分人とはそれに対して分割できるものという意味で dividual という単語を当てる。

人間は個人でなく、何百、何千もの分人の集合体だというのが平野の主張である。

分人はどうして形成されるか。他者との交流のなかで、それは立ち上がってくる。

青年の「自分探し」は虚しい作業ではなく、より多くの人と接して、不足している分人を確立するため。

人を好きだということは、その人といる時の自分、すなわちその人との関係の中で生じた分人が好きだということ。

亡くなった人と会話しているのは、その人との間に出来上がった分人がしていることで、決して演技ではない。

「喪の作業」とは、親しい人を失った分人を静かに眠らせること。

人を殺していけない理由は、その人の持っていた無数の分人を殺して、無数に広がる関係を断ち、膨大な悲しみを生むことだから。

人間は、個人ではなく、他者との間に作る分人の集合体だ、というのが、この本の結論。

人間が他者と結ぶ関係の総体だということは、「フォイエルバッハに関するテーゼ」のマルクスも、「死に至る病」のキルケゴールも言っていたことで、別に目新しくはないが、これほどまでに日常生活に引き寄せて展開されると、極めて新鮮であり、皮膚一枚に隔てられて、自分が他人と全く無関係に存在するという考えを打ち破ってくれるだろう。

(*マルクス フォイエルバッハに関する第6テーゼ**僕はキルケゴール「死に至る病」を高校生のころ読み、たいていのことは忘れているのだが、次の一節だけは鮮明に記憶している。

*「フォイエルバッハは、宗教の問題とは結局人間の問題である、というふうに解消する。しかし、人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。」

**「自己とは何であるか、自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係することである」)

自己責任論とは、他人の不幸や困難を見ないで済ませる特権を合理化する議論に過ぎない。それは分人論をとればたちまちその虚偽が理解できるものである。

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