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2014年2月24日 (月)

その人らしさ 再考・・・人間だれもが持つ普遍的な人間らしさの、個別的・個性的な表現としての「その人らしさ」

「その人らしく生きることを支える」  「その人らしい選択を尊重する」 いずれも僕たちの医療・介護活動の基本的姿勢だとされている。

しかし、僕自身はこのことに長いあいだ同意できないでいた。

「その人らしさ」には多様な面があり、場合によっては、正義の立場からそれを肯定できないこともあるのではないか。

たとえば、人種差別、民族差別がその人らしさの最大の特徴だったたとしたらどうだろう。

「黒人の医師には診察してほしくない」

「在日韓国人の看護師は担当から外してほしい」

という希望を尊重することなどできるのか?

それに対する答えが出ないまま、僕は別の視点でこの問題を考えてみることにした。これは僕の勤める病院で在宅医療を担当する立石君の講演の記録をもらって読んだことによる。

「その人らしさ」は常に明らかになっているとは限らない。むしろ潜在的な可能性としてその人の中に秘められている。

あるいは、その人らしさが現われるのは状況による。すなわちコンテクスト依存性だということである。

そして、「僕にとってのその人のその人らしさ」 は、その人と僕の交渉の過程の中でしか現われてくるしか可能性はない。

在宅医療をしている人は、患者の最期の場面にその人らしさが初めて発現してくることを発見しているのだろう。その場面に立ち会うことをその仕事の最大の喜びとすることもあるようである。立石君はそう言っている。

この経験こそが、「その人らしさを尊重する」という基本姿勢の出発点である。

「その人らしさ」はその人の中に秘められた「人間らしさ」のもっとも核心的な現われで、それが正義に基づいてどう評価されるというより、逆に、僕たちが正義観を形成していくうえでの素材を形作るものである。

そういう意味で、僕たちには「その人らしさ」は本質的・普遍的な「人間らしさ」の個性的・現象的な形態であり、僕たちの正義の出発点だと信じることが求められているのである。そ

上記の人種差別主義者、民族差別主義者の患者の例に沿って言えば、彼がそれを克服する過程こそ、彼としての「その人らしさ」であるのだろう。

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