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2014年2月23日 (日)

ケアの倫理を土台にして、正義を論じなくては ・・・ある理髪店での出来事

当直明けの日曜の午後になじみの散髪屋さんに行って眠り込んでしまうと、老女性店主が電話する声で目が覚めた。

「もしもし、奥さんですか。お元気にされていますか。本当だったら今日がいらっしゃる日だったんですよね。みんなで、もうお見えにならないのが寂しいねと言い合っていたんですよ。ずっと通ってくださったお客さんたちもだんだん少なくなってきて・・・・ええ、ええ・・・・奥さんもお寂しいと思いますが、お元気にされてください。」

そのあとは泣いているようだった。この店には数か月に一度髪を染めに来る高齢者客が多く、そういう人が複数いると待ち時間がすごく長くなるので、僕も引き返すことがよくある。その中の一人が亡くなり、そのお悔やみの電話を時機を見計らってかけたのだろう。

この地方都市に住んで40年以上になるが、こんな風に生活のなかにケアが張り巡らされていることには気づかないできた。

それはそうとう部厚いものだろう。そこに迫るような仕事を自分がしてきたかどうかを考えると急に心もとない気がしてきた。

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前日、2/22(土)の午後は医療生協の理事会だった。

 「どうすれば組合員活動が強化できるのか。組合員のお世話係として組織部の事務職員を増やせばいいのか、専門家である病院職員からの班会企画への援助を強化すればいいのか、それとも組合員の自主性が活かされるよう活動のスタイルを一新すればいいのか」を激しく議論して答えが出ないまま病院の当直に入った。

なんとか体操などの個人的健康法の普及とそのための指導職員の養成が「地域まるごと健康づくり」の基本だと思われているのも間違っていると思うのだが、そのことへの上手で丁寧な反論がすぐには思い浮かばなかったのも自分が悔しい気がする。

それより、組合員がなかなか増えないという壁にぶつかったとき最も強い味方になってくれるはずの定年退職職員が退職セレモニーの後はそれきり医療生協に近づきたがらない傾向が明らかに強いのは、やはり僕たちの組織のどこかに欠陥があるのだろうと思うと、さらに気が重くなった。

こういうときでも当直が忙しいとこんな気分も紛れるのだが、この晩は何とも静かに経過する。

せっかく来てくれた救急車も、患者さんにはそれが一番だが、軽症ですぐに帰宅できるもので、まもなく朝になる。

土曜の夜がこれではこの1年続く経営悪化もなかなか挽回できないなぁと思いつつ、なんともしょぼい感じで朝の検食を食べていると、交代して日直に入る(宇部協立病院副院長の)立石彰男君が近づいてきて

「残部が少ないのですが、約束していたもの」と一冊の小冊子を渡してくれた。

病気で県会議員を引退した山口県岩国市の久米慶典さんが中心になっている「岩国地域の医療を考える会」で、山口県の在宅緩和ケアの第一人者と目された彼が講演した記録である。

彼の目指す在宅医療と山口民医連の医療活動方針を一致させるため、何か彼が考えている在宅医療について分かりやすくまとめたものがほしいと、相当前に僕が頼んでいたことに、忘れたころに応えてくれたのである。

忘れるのが格別早いのはこちらの話で、立石君としてはごく普通のスピードの反応だったろう。

さっそく読んでみると彼の緻密な仕事に圧倒される感じで、同年齢の医師として少し焦りを覚える。これを全員分ちゃんとコピーして、県連や、医療生協内に自分で普及してくれたら、みんなの在宅医療への理解が一段深まるのにとも思える。

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朝のそのことを思い出しながら、散髪屋さんで考えたのは、僕がこの町に持ち込もうとしたのは、根のない社会正義に過ぎなかったのではないかということだった。

それは日常の部厚いケア倫理の中にしっかり根を張ったものでない限り、ただの宣伝行為であったり、主観的にのみ良心的な企業運営に過ぎないものになるのだ。

すでに存在している地域のケアに結びついていく努力を始めるのに遅すぎるということはないだろう。そのとき、立石君が懸命に努力している地域緩和ケアが一つの典型、あるいは架け橋になってくれるのだろう。

ところで、健康づくりの話だが、僕たちにとっての健康づくりは、個人的な健康法の普及ではなく、ケアやソーシャル・キャピタルの強化をはじめ、健康の社会的決定要因一つ一つの測定と改善のはずである。

**立石君の講演の中で印象深い部分を三か所引用しておこう。(表現は幾分僕流に変更)

①「患者さんが家に帰りたいと言うときの4カ条

ⅰ)「家に帰りたい」は「家でしたいことがある」と受け止めて、それが何か知ること 

ⅱ)患者さんの気持ちに導かれるように準備すること 

ⅲ)チームの知恵を集めて安全・便宜を図ること ⅳ)周りがもり上がりすぎないようにすること    

②痛みのコントロールは医師と患者で共通の目標を持つ。その時患者の役割は痛みの程度をなるべく正確に表現することである。そのためのツールはいろいろ準備するが、患者に忍耐を強いる『自制内』と言う言葉はなくする。 

・・・・ここは「患者中心の医療」の第3コンポ―ネント「共通基盤を作る」の典型例である 

③(結語の部分)自分が導こうと思われて患者さんに導かれ、自分が支えようと思って患者さんに支えられ、自分の力を生かそうと思って患者さんの力を発見する、患者さんのその人らしさが最も輝くときに立ち会える、そういう人と人の出会いの恵みがある場が在宅医療です。 

・・・・へそ曲がりの僕としては、それは在宅医療の場に限らないとつい呟いてしまうのだが

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