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2014年2月12日 (水)

ファビエンヌ・ブルジェール「ケアの倫理-ネオリベラリズムへの反論」文庫クセジュ、白水社2014/2・・・「依存しない自律した合理的個人という虚構に依拠しているネオリベラリズム」をどう克服するか・・・センと柄谷/民医連の連続性を見つける

1/31に全日本民医連の会議室で東大の川本隆史さんから紹介された本。

素人にはあまり読みやすくない。小さい本だが、読み続けるには自分なりの工夫がいる。ようやっとの思いで読み通したが、十分理解できたとはいいがたく、あまりお薦めではないかもしれない。しかし、個人的な健康づくりを推奨する医療生協の一部のあり方に疑問を持つ人には、それが結局は新自由主義による「ケア」の取り込み・奪取・セルフケアへの変質強制だということを理解させてくれる貴重な示唆に富むものではあると思う。何度か読み返して初めて価値のわかる本だとも思う。

◆まず、若干、言葉を簡素化しておこう。

要はルールについて。

実践理性=みんなで良く考え抜かれたルール(熟議deliberationにもとずくルール)

これは次の二つに分けられる

○道徳=いつでもどこでも通用するルール(コンテクスト非依存性のルール)

○倫理=ときと場合によって答えの違うルール(コンテクスト依存性のあるルール)

倫理は、他人に依存してしか生きられない人たちの世話(ケア)の倫理としてまず現われる。

よく考えれば、他人に依存しないで生きることはだれにもできないのだが、

ある状態より外側にある状態 (たとえば家庭の中にいる状態に対して、経済社会で働く状態)を人為的に「依存しない、自律している状態」 と決めて、

その状態で成り立つ倫理を、道徳あるいは正義と呼ぶ。

こう考えれば、道徳は、自然発生的な倫理からむりやり作り上げた特殊な人為的な、抽象的なルールと言える。

◆この本の中心的メッセージ

79ページ「依存しない自律した合理的個人という虚構に依拠しているネオリベラリズム」がそれである。

これは、アマルティア・センのいう「合理的な愚か者」という批判と本質的に一致する。

依存する人、依存する人を配慮することによって脆弱性を付加されてしまった人、その人を援助する社会的ネットワークという、「拡大された相互性」(78ページ)こそネオリベラリズムと対抗する生活モデルである。

僕としては、これを「依存の多重同心円」と呼びたい。

実はこの同心円こそ、柄谷行人のいう交換形態を人類社会の土台として考える立場から見ると、A.互酬、B.再分配、C.商品交換とい構成要素の中ではA.互酬の高いレベルの再現であり、アソシエーションの一形態である。

ここで、僕はアマルティア・センの主張と、柄谷や民医連のいう非営利・協同・アソシエーションの連続性を発見するような気がする。

◆81ページ「配慮=ケア=介護労働がどうしてこれだけ低く評価されるのか」という問題は、今日の日本の介護の行く末を考える上でもきわめて重要な問題である。

上野千鶴子さんなら「介護が女の仕事だとみなされているからだ」と簡単に言いきってしまうところだろうが、この本ではネオリベラリズム、新自由主義にその原因を求めている。

それはネオリベラリズム、新自由主義は、個人の自律と言う虚構の上に立つ制度で、人間同士の依存の必要について目を閉じ、耳をふさぐ性質を持つからである。スピヴァクは、「見たくないことから目をそむける、聞きたくないことは聞かない」ことが「特権」の本質だとしているが、同じ意味なのだろう。

◆他人から奪う、他人を支配するために人間関係が結ばれる状態を脱して、他人への関心と心配と世話を人間関係の基礎におく社会をどう作るかが問題である。

シモーヌ・ヴェイユこそ「関心が真の人間の相互作用の原動力にある」と考えた人だった(84ページ)。

◆「自律」と「平等」の見方を変えてみよう。

85ページ ○基本的に弱い存在としての人間の自律性はどう保たれるか?民主主義の本質は「弱さ」の排除を決して許さないことにあるのではないか。 

○生まれつき平等でない人たちが「平等の共同体」を作る時、何を平等とすべきなのか?おそらくはケイパビリティの平等だ。 

○相互依存はどのように築くべきか?それは「ケアの倫理」に基づくしかない

◆エレン・メイクシンズ・ウッドの「資本主義の起源」こぶし書房2000年という極めて興味深い著作には次のようなことが述べられている。

<17世紀のイングランドの田園地帯で、「地主、借地農、賃労働者」という新しい階級構造が生まれた。借地権・地代・利潤確保の競争の中で農民は、資本家的借地農と賃労働者に分解したわけである。この競争の中で、輪作や新たな農地の開拓など農業の著しい技術的な進歩が実現した。その結果、以前に比べはるかに少ない人数で以前以上の収穫が可能となった。その結果、没落農民は飢餓に直面し、ロンドンの貧民街に溢れた。

こうして、もともとはイングランド田園地帯のローカルな出来事だった農民の分裂から、資本主義が世界中に一度きりの現象として広がっていったのである。

この本にも同じようなことが書かれている。○90ページ 「ネオリベラリズムは、ある地理上の部分において生まれ地球全体に拡大した構造」であり、人間のあらゆる経験を経済合理性、すなわち利潤に従わせるものだ。それが人類を滅ぼすほどの害悪をふるっているのが現代だ。

そこでのケアは、セルフケアとなり、アスレチック・ジム通いのように、利潤を上げるための個人を作り上げようとする「人的資本形成」に堕してしまう。これが、ネオリベラリズムによるケアの「取り込み」である。そして、それだけがネオリベラリズムの世界のケアなのだ。

それは、一種のパンデミック、世界的な疫病としか言いようがない。私たちは、これを克服してケアを本来の形、他人への配慮として取り返さなければならない。

資本主義や、ネオリベラリズムを、人の生活やケアを侵す流行病としてイメージすることは、いま真に必要なことである。

その治療手段こそ「ケア」の普遍化に他ならない。今度はケアが世界中に広がっていく必要がある。

それが可能なのは、ネオリベラリズムは虚構のシステムであり、他人を配慮する大量の人間活動がなければ、経済活動への専念はごくわずかな時間でも不可能であることを無視することが長続きするはずがないからである。

柄谷のいう「互酬」、私たちの言う「非営利・協同」の経済活動、すなわち、ケアに基づく経済活動(交換活動)はその虚構を打ち倒して、世界中に広がる。そのとき、旗印になるのは、センのいうケイパビリティの平等、ロールズ正義論の格差原理だろう。(そのときは格差原理がその他の2原理に優先するというふうにロールズの読みの転換が起こる必要がある)

◆ケアが世界のルール(倫理)となるときこれまでの公私を区別する線は、たちまちにあいまいになる。ケアは女性の仕事でも、私的な仕事でもなくなる。

そのとき、「ケア」はどのように組織化されて行くのか、といことは新しい問題である(97ページ)。

どうしたら「ケア」に誰でもが参加できるようになるのか?(104ページ)

それは、現在行われているケアの企業化・民営化(アメリカでは、医療・教育・刑務所などがすべて民営化されようとしているが)と鋭く対決していく中で答えを見つけ出していく。

そこから「経済社会の根本的な再組織化」が構想されていく(109ページ)。

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