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2014年2月 8日 (土)

パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」三砂ちづるによる新訳、亜紀書房2011/1  虚構引用

パウロ・フレイレ(1921-1997)はブラジルの著名な教育学者で、エンパワーメントという概念を確立したことで有名であるが、なぜか日本の民間医療団体である民医連についても数多く言及している。両者は同時代の学者と組織であり、ブラジルには日本からの移民も多いことからそれは自然なことと言えよう。

重要な言及については、後ほどまとまった量の文章を引用するが、手始めに印象的な幾つかの言葉を示しておきたい。

○(民医連の青年職員について)

290ページ「しかしながら、民医連のあの大勢の青年職員たちについて考えれば、支配者である保守潮流の影響はかなりのもので、抑圧された階級という意識をもつ前に、映画『エイリアン』のように支配者を自分自身の中に内なる存在として抱え込んでしまった『抑圧された人間』という認識が必要になるのだろうと思う」

○282-283ページ ゲバラの回想録の中で最も印象的だと思うのは、彼がゲリラ戦士としてでなく、医師として働いている自分について書いているところである。

たとえば日本を訪れたゲバラはほんの短時間、民医連の病院で診療に当たった時のことを次のように回想している。

「ゲリラと農民は一体になり続けている。本当に一体になれる日がいつになるかは、まだ誰もわからないのだが、ただ私についてだけ言えば、日本の民医連で日本の抑圧された労働者たちを診療することで、何というのだろうか、自然で抒情的な決意が生まれてきたことを懐かしく思い出す。それは、以前とは全く価値の異なる静謐さに満ちた力を自身に与えられた瞬間だった」

では、順を追って、民医連への言及を引用していこう。

◆序章

16ページ 民医連医師にとって大事なことは、自分が歴史を動かしていると考えたり、運動の指導者になれると考えたり、あるいは自分こそが困難に陥っている住民の解放者になれると考えたりしないことである。

激動する歴史のうちにあることを常に感じ、コミットメントを恐れず、人々とともに闘う。それだけが大事なのだと思う。

*コミットメントとは2014/1/31の全日本民医連本部での東大・川本隆史教授の講演によれば「自らに向かう不利益も引き受けて、あることに関わっていくこと」である。

◆第一章「被抑圧者の教育学、あるいは民医連医師論」を書いた理由

25ページ 

不当な支配に苦しむ人々のために働こうとしながら、自らの中に支配層を「宿している」ことにも慣れている民医連医師が、その存在の二重性に苦しみながら、いかにして民医連運動の発展に寄与できるかということは大きな問題である。

民医連医師が支配者は「自らのうちにある」ということを発見した時に初めて、民医連運動の誕生に貢献できる。なんとか世間でいう「一流の医師」と自分も呼ばれたいという思いを抱えて、無自覚に二重性のうちに生きている間は、真実の自分を見つけることもできないだろう。

33-34ページ

しかし、自分のうちに支配層を宿していることを発見して苦しんだとしても、支配されて困難にあえいでいる住民との連帯がただちに成立するわけではない。

本当の連帯は、ちょっとカンパしようとか、自分のパターナリズムに何らかの合理性を見つけることではない。連帯する相手の状況をわが身に引き受けるということなのである。

28ページ

逆に、「偉く」なった民医連医師が普通の指導的医師よりずっと過酷な抑圧者になるケースがあまりに多く見聞される。そういう人たちは、民医連運動の中にいながら大学教授である医師のうちに自らのロールモデルを探していたのだと私は考える。

48ページ

支配者のふるう暴力は、支配されるものがあたかも人間として存在することを禁じるかのようであり、民医連がこれに抵抗することは、支配されて苦しむ人々の持つ「人間として生きていく権利への深い渇望」に根ざしている。

一方、民医連医師であっても、「自らのうちに宿している支配層」としての「個人の権利」を主張するということは、人々が悲しみや絶望に苦しみ死んでいくことを平然と無視する自由を要求する、ということである。

58ページ

医師が、民医連運動に関わっていると言いながら、人々と心を通わせることができず、職員・患者・住民を相変わらず無知な人間だと思っているなら、それは痛切な誤りである。

68ページ

民医連医師の側に、職員・患者・住民のまっとうな思考への信頼が欠けていると、本当のコミュニケーションは成立しえず、つまらないスローガンや知識の注入や指図ばかりを行うことになってしまう。人間の自由や解放に中途半端な関わりを持つことの危険がここにある。

74ページ

変革をめざす医師の実践する医療は、職員・患者・住民との共同の志向性に基づいたものでなければならない。現実を知り、批判するだけでなく、健康の社会的決定要因SDHを一つの典型とする新しい科学そのものを再生することによって、医師も職員も患者も住民も行為の主体になる。そのなかで、自由と健康を追求する主体として地域住民が現われる時、それこそが真の参画(アンガ-ジュマン)なのである。

◆第二章 抑圧のツールとしての”銀行型”教育

78ページ

民医連の医師や看護師の行う、患者・住民あるいは後輩の青年職員への指導や教育の特徴は、「ひたすら一方的に話す」ということである。

もはや、「話す症候群」とでも言いたい。患者や住民の現実と何の関係もないことをただべらべらと話しているだけなのである。

81ページ

彼らは、教師の教師が実は生徒であるということを考えてもみたことがないようだ。

83ページ

彼らの指導や教育は、住民や後輩青年に「世界は変革するものでなく、適応するものだ」という主張を押しつけているだけである。それはヒューマニズムではなく、似て非なる(あるいは反対物に近い)ヒューマタリアニズム=人道主義というものでしかない。

84ページ

学ぶ側が、適応だけを考えているなら教育はいとも簡単なことである。

99ページ

本来の教育とは、入金が書き込まれていく銀行預金の通帳のように、知識の容器として人間を見るようなことではなく、世界との関わりのうちに問題の解決を模索するようなものであるべきだ。

100ページ

民医連の教育とは、支配者から禁止された「なぜだ?」という問いを解こうとするものである。

「なぜ格差があるのか」「なぜ貧困な人は不健康なのか」という質問を呼び起こすのが民医連の教育である。

◆第三章 対話性についてー自由の実践としての教育の本質

154ページ-172ページ

教育のテーマ設定は現場や地域の調査から始まる。ここでは生徒が教師になる。

対話によって現実が分析され記録されること、見た目ではあまり重要ではないさまざまなことがノートに記録され、分類されることを「コード化」という。

多数のコードから、現場や地域の全体的な現実が浮かび上がってくることを「脱コード゙化」という。それは質的研究による「仮説の作成」ということである。

その仮説を、現場や地域の人々に示して討論し、それを記録することは新たな「コード化」である。

それをさらに脱コード゙化し、再び人々に提示するということの繰り返しの中で、地域の人々が抱える問題が明らかになる。

その解決をともに考えることを含めて、これらの総体が教育である。

◆第四章 反-対話の理論

200ページ

民医連のリーダーは、職員を指導者が決めたことを過不足なくやってのけるだけの機械にしてはならないし、自ら反省することのない活動家(アクティビスト)に仕立ててもいけない。

また選挙に立候補するような指導者を見て職員が自ら行動しているかのような幻想を持つとしたら、本来そういうことはなくさなくてはならないと考えている人たちによってそういう状態が維持されている証拠だということになる。

民医連のリーダーは、職員とともに考える姿勢を失えばもう終わりである。

281ページ

民医連のリーダーは職員の潜在能力を信頼しなければならないし、彼らを単なる手段ととして扱ってはならない。

しかし同時に、支配された人々の持つあいまいさ、二面性ということには常に警戒すべきである。強い言葉でいえば「不信をもつこと」が必要である。

支配されたものは、自分自身である以上に、うちに飼っている支配者・抑圧者の影響を受けていることがある。彼らは公然とリーダーへの反対を口にし、仲間を組織し、リーダーを告発することもある。そういう現実にナイーブであってはならない。

274ページ

しかし、そういう事態に直面して、民医連のリーダーが一般企業の経営者のような方法をとりたくなるとしたら、それは正しくない。

警戒しながらも対話し、学び、なぜ彼らが自分にとって「不信を持つこと」を必要にしているのかを忍耐強く追求するべきである。

このとき、チェ・ゲバラの回想録の数々の言葉が参考になるだろう。

時には医師として働いた時の謙虚さに満ちた抒情的な感慨が、仲間の処罰を続けなくてはならない過酷な状況のなかでの、唯一の支えとなることもある。

286ページ

一般企業において支配の実践は簡単なことであり、経営者の本能や勘でもできることだが、民医連のリーダーにとって職員の自由を保障することはそんなたやすいことではない。

一般企業の経営者は内外の権力という道具を使うことができるが、民医連のリーダーは権力の重圧の中で活動しているからである。

308ページ

民医連職員は、内なる支配者をわが身に飼っている限り、自らを解放できない。リーダーを始め、多くの人々との交わりの中で、それを可能にする理論を見つけて行くのである。

309ページ

民衆への信頼、人間という存在への信頼、今よりほんの少しは愛する価値のある世界や日本を創造できるという信頼。それをこの本の中に民医連職員が少しでも見つけてほしいと願って書いた。

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