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2014年1月13日 (月)

サイード「オリエンタリズム」、パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」、大江健三郎の共通点

フレイレ「被抑圧者の教育学」を読んでいるとと、らせんを描くような繰り返しに少しうんざりする。

なるべく短く簡潔な表現で必要なことを言い尽くすという僕たちの文章作法とはまったく遠く、真実の破片を塗り重ねることで立体的な真実を浮かび上がらせるという手法である。

それは、植民地の抑圧された人々への革命家の演説を想像させる。具体的には堀田善衞がキューバ紀行で描いたカストロの演説。

そう思って読むと、繰り返しが苦にならず、むしろ心地よい。

どこかで、これに似た感想を持った気がすると考えていると、E.サイードの「オリエンタリズム」がそうだったと思い出した。あの本も同じ目的の異なった例示が延々と続く本だった。

サイードから連想すると、大江健三郎の小説もそうである。初期の「芽むしり仔撃ち」や、中期の「個人的体験」「万延元年のフットボール」くらいまでは、ストリーを記憶できるが、後期の長江古義人が主人公となった最近の一連の作品はほとんど区別できない。ひたすら同じテーマが違ったシチュエーションで繰り返されているからである。

【結論】フレイレ、サイード、大江は思考と表現の資質においてまるで同一人物のように感じられる。

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