加藤周一とベナー看護論を交叉させてみる
加藤周一を目標にするなどという不遜な愚かさだけは誓って一片もないが、彼が死亡する数年前に製作された記録映画で、大要次のように言ったことは、ずっと僕の心の中で響き続けている。
「宇宙にしろ、世界にしろ、外界に対して自分は塵のように無力な存在でしかないが、外界に意味を与えるのは、そのちっぽけな自分の心なのだ」
その意味を完全に受け止めえたわけではないが、元気がなくなったとき、いつもその言葉を思い出す。
話は変わるが、技術論研究者だったドレイファス兄弟にならって独特の看護技術論を打ち立てたベナーさんは、看護師を新人である第1段階から始まる5段階までに分けた。
第1段階から第3段階までは制度教育、あるいはマニュアルで到達する。しかし、マニュアルを超えた何かを創造する「熟練者」という呼ばれる第4段階には、第5段階の看護師の援助がないと進めない。そこには明らかに一つの飛躍がある。
では第5段階の看護師にはどうやって到達するのだろうか。これをベナーさんは詳しく書いていない気がする。もし書いているなら誰か教えてほしいのだが、僕の想像では、それは天性のものである。彼らだけは何の苦労もなく、第3段階から第4段階に進みあっという間に第5段階の人となる。
ベナーさんは彼らの特徴だけは把握している。現場や患者にのめりこみ、そこから被るかもしれないどんな危険や不利をも顧みることがない。彼らにはマニュアルなどは何の意味もない。どう行動するかは、ケース自体が彼らに話しかけてくる。まるで、木や石にあらかじめ埋もれている像が彫刻家に語りかけるようにである。
おそらく、この人たちは、あまり洗練されておらず、現実の組織では不遇で敬遠されがちで忘れられていることも多い。功成り名を遂げ管理職に這い上がった幸運でおしゃれな第4段階の人の思い出の中にのみ生きていることも多いのだろう。早く死んでくれてよかったという歪んだ思い出でさえあるかもしれない。
そこで、僕が思うことは加藤周一さんも本質的に5段階の人だったし、それゆえ幸福ではなかっただろうということである。だからこそ、彼は自分の無力を認識しながら、世界に意味を与えるのは自分の勇気だけだと言い切ったのである。
自分が5段階の人でないことは明らかだし、加藤さん以外にそういう人に出会った経験も少ないのだが、現場や患者にのめりこみ、そこから被るかもしれないどんな危険や不利をも顧みることがない姿勢だけは模倣して生きていきたいものだと思う。
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