柄谷行人による大江健三郎批判1977について (柄谷行人蓮実重彦全対話」講談社文芸文庫2013)
出張中に読んだ大江健三郎の新しい小説の感想を書いておこうとして、その準備体操代わりに、少しづつしか読めないでいる上記の本をふと開くと、最初が大江健三郎批判だった。もう忘れている。
それは1977年のもので、批判されているのは今の大江健三郎でなく、若くて自己主張も全開という大江だし、批判しているのも35歳くらいの柄谷なので、あまりまともに論じるものでもないのかもしれない。
しかし、福島原発事故以降の今から見て、少し興味深い展開になっているので、大江の小説の感想を書く前に触れてみようという気になった。
25ページ。原爆というものが大江には何か直接的な「物」として見えているのがおかしい、と柄谷は批判する。
それはマルクスが批判した、貨幣そのものが価値を持つと考える物神崇拝(フェティシズム)に等しいものなのだ。原爆は帝国主義戦争を生んだ人間集団の関係性の表現であり、またその関係性を変えたものでもある。
つまり、柄谷は原爆を一つの商品とみて、その背後にある人間関係=国際政治こそが原爆の本質だと言っているのである。
それは外れてはいない。原発に至っては、まったく純粋な商品であり、原発を商品として交換する資本主義のありようこそが問題の本質だと言えなくもないだろう。
だが、柄谷は原爆にしても、原発にしてもそれが交換価値(正しくは価値)であるという側面だけ見て、その使用価値の側面に考えが及んでいない。
原爆や原発という商品の特殊性は、その使用価値において反人類的なのである。そうでなく、背後の関係だけ見ていると、良い原爆・原発、悪い原爆・原発があることになり、一時期の共産党と同じ主張をを柄谷が繰り返すということになる。
大江が原爆や原発を正しく「物」自体ととらえて、想像力を発揮する。それは全く正しいことだ。
さすがに、蓮実重彦は、26ページで「僕はそこで大江氏の評価が違う」と言明する。大江は、いろいろな流行の思想で自分を飾ろうとするのが困るけれど、彼の本当の価値は、彼のそうした衣装=意匠を超えて、「物」自体をとらえてしまうフェティシズムにあるので、それは素晴らしいものだと蓮実は言う。
そうすると、柄谷は、「そうなのだ。自分は7年前に原爆を本当に恐怖する大江が凄い」というエッセイを書いたのだと答える。
そこから、大江の超能力のようなものについて話が弾み、蓮実が「話の方向が変わって大江弁護みたいな感じになってきた」、というところで話が一段落する。
一つの滑稽話として残しておくことにした。
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