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2013年11月12日 (火)

構造と物語・・・物語に基礎をおく医療NBMは不可知論でも観念論でもなく「共同の営みとしての医療」の一表現だった

物語に基礎をおく医療 Narrative besed medicine NBMが次第に常識になりつつある。

今朝は改めて「物語」とは何かを考えてみた。

結局、それは土台と上部構造を持つ「構造」あるいは「構成体」として世界をとらえたものである。

あるいは、世界の中に「因果関係」が存在すると信じて行なった解釈とも言える。

だが、それを「物語」とあえて呼ぶとき、問題が発生する。「人間は、その中に因果関係が成立する一揃いの『物語』の形式でしか、世界を認識できない」という考え方が、NBMでは暗黙の前提になっている。それはいいとしても、さらに言えば、本当は世界に構造や因果関係があるかどうかは分からない、そして分からなくともよい、だからこそ「物語」と呼ぶのだ、という不可知論あるいは観念論が隠れている気がしてきた。

だから各人に各人固有の「物語」があり、それは互いに対等だと相対化できるわけである。

どうせ真実は分からないのだから、患者や医師の持った物語を対等な仮説として併行的に採用して前に進み、正否は治療結果で判断しようという態度は、プラグマチズムすなわちPDCAサイクルにもつながるし、互いの物語を平等と認める点では、民主主義的でもある。

このあたりにNBMの魅力があるのだろうが、僕には最後まで不信が残っていた。

たしかに今この時は自明の構造や因果関係とされていたものが新たな発見で次の瞬間にはすべてが覆ることは多い。1970年に胃炎・胃潰瘍は感染症だと思っていた人は皆無で、まったく別の「胃潰瘍になる人の物語」が厚く構築されていたが、今では感染症だという常識が世界を支配している。

そういう意味では相対主義的態度は好ましい。

しかし、「すべては物語だ」と言い切った時、世界は一枚のレポートに還元され、怒りや悲しみは蒸発し、共感は患者接遇の技法に変わってしまうことが起こりやすい、と僕には思えてならなかった。

やはり「世界をとらえうる構造」の実在を信じ、その精緻化をいつまでも追求すべきではないか。そうでないと、生きたことにならないのではないか。

だが、今朝あらためて思ったのだが、患者と医師が積極的にお互いの「物語」の存在を承認しあって物語同士が交流し互いが変容して一つの物語に行き着く、というところにこそNBMの本質があるのだ。

そこには、不可知論や観念論はない。

正しい構造によって世界をとらえようとする患者と医師の共同行為があるだけである。

患者と医療従事者の「共同の営み」、あるいは「患者中心の医療PCM」における「患者と医師の共通基盤」を「物語」という概念を使って、より人間らしい生活の視点から描いて見せたというものだったのである。

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