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2013年9月11日 (水)

平田オリザ「わかりあえないことから  コミュニケーション能力とは何か」講談社現代新書2012

僕の加わっているFacebookで今日は炭鉱のことが問題になった。僕の住む宇部市も炭鉱の町だった。

先日、被災地訪問でおとずれた福島県いわき市も炭鉱町で、そこを舞台にした映画「フラガール」(李相日監督)には手本とされた先行作品が二つある。二つともイギリスの映画であり、一つは「ブラス!」、もう一つは「フル・モンティ」である。

共通するのは炭鉱の崩壊という背景である。

このことはこの本のあとがきにも書かれているが、崩壊したのは炭鉱だけでなく、一次・二次産業の背景地であり、そこにあったコミュニティも消えたことがこの本の主題と大きく関係している。

一次・二次産業の背景地では長い時間をかけて作る人間関係が濃密で、その場限りの言葉によるコミュニケーションはそれほど重要ではなかった。「無口で頑固な職人」が尊敬される社会だったのである。

しかし、三次産業が主要産業になると、コミュニケーションは急に重要になり、無口な職人は社会の片隅に追いやられていく。

これはその中にこれから生きていく若者には極めて重要なことで、彼らの平均的なコミュニケーション能力は次第に向上している。しかし、一定の比率でコミュニケーションが不得意な若者も必ずいる。

彼らが生きて行くのに必要なコミュニケーション教育がいま求められており、それには演劇を応用するのがもっとも良いというのが、著者の第一の主張である。

そのために、大阪大学にはコミュニケーション・デザイン・センターというものができ、口下手でもしっかり患者や生徒に共感できる質の良い医師・看護師・教師を生みだそうとしている。

だが、問題はそれだけではない。ジークムント・バウマンが「リキッド・モダニティ  液状化する社会」大月書店2001で描写したような、社会の液化・粒状化が確実に進んでいる。

もちろん、それは炭鉱を閉山に追いやり、多くの工場を廃業させ、日本経済を著しい空洞化に陥れた新自由主義的な経済グローバリゼーションで加速され、問題として一層過激になってしまったが、その方向自体は不可避的なものである。

社会を構成する人々の価値観が多様化し、どこかにある中央の司令部から発される命令に多くの人が一糸も乱れず団結するということは、もはや絶対起こらないだろう。

それは一見困ることのように見えて、実は悪いことではない。

多くの人はバラバラになり、心から分かりあえないというさみしさに悩みながら、必死で協同していく課題を発見してい行こうとするからだ

それを著者は「協調性から社交性」へと表現する。

加藤周一さんなら「日本的なコンフォーミズム=画一主義から、『9条の会』的な連帯へ」といったかもしれない。

そういう変化を支えるコミュニケーション能力を、大人も子どもも学ばなければならない。

そこにはやはり演劇の力も大きいだろうし、また別の何かも必要だろう。

また、常に理路整然と気持ちを伝えられないコミュニケーション弱者と社会的弱者はほぼ重なり(「サバルタンは語ることができるか」)、そういう人の気持ちをくみ取ることの重要性は現代社会に生きるものの必須の能力でもある。

著者は、最後に若山牧水を引用しているが、ばらばらの寂しさに耐えながら、自律的に他人との関係を構築する力をどうしたら個人の中に育てていけるか、が問題だ。

そこで、僕は、場違いながら中島みゆきの歌の一つを思い出した。

12月クリスマスの日に独り身でいる時感じる「人恋しさ」に負けたら、あなたの真実を全て失うだろうと、ずっと昔に彼女は激しく叫んでいたのである(アルバム「グッバイガール」のなかの「愛よりも」)。何んという先駆性だろう。

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