上野千鶴子「ケアの社会学 当事者主権の福祉社会へ」太田出版2011・・・川本隆史さんの批判めいたものもあるが、この本のバックボーンもアマルティア・センだ
民医連で「ケアタウンたかのす」を僕たちのめざす「まちづくり」とむすびつけて発言したら、何人もの人から研究論文のコピーを貰ったり、その人の知っていることを直接教えてもらったりした。
僕が知らなかっただけで、たくさんの人が秋田県鷹巣町におけるかっての「日本一の高福祉」の興亡に熱い関心を寄せていたのだ。民医連という組織の蓄えている知識の厚みも感じさせられた。
徳島健生病院の看護部長をしている松浦さんからは上記の本を教えてもらった。「在宅医療・介護」の交流集会も無事終わったので、東京から山口の帰途に丸善に寄り道をしてようやく買うことができた。
○羽田空港の待合室で序文から読み始める。おそらく2011年4月に書かれたもの。
「市民社会とは、どんな条件下におかれた他者であれ、自分と同じ人格を持った個人として尊重するという想像力にもとづいている」
「そのなかで災害弱者に対するまなざしも育まれた。高齢者を高齢者だからという理由で助からなくてよかった、とはだれも思っていない」
「わたしたちが到達した社会とはこのようなものだ。希望を持ってよい」
と書いてあるところで不覚にも涙を流した。
希望がそう簡単に得られるものでなかったとわかった2年後だったからである。
○49ページで、川本隆史さんが論じられている。
「家庭と女らしさに退却」したフェミニストであるキャロル・ギリガンの最初の紹介者、「ケア」という言葉を日本に初めて定着させた人、「ケア」の中にあるジェンダーを隠蔽して普遍的な倫理問題として論じることによって、ジェンダーの問題において男性優位を保つ政治的振舞いをした者として、である。
なんだかなぁ、と思う。上野という人は敵を作ることでしか前に進めない人のようだ。
○74ページ 本書がアマルティア・センの「潜在能力アプローチ」に依拠することが宣言されている。この本を読んでよかった、と思えるところである。
僕は、クラウドに揃えられたアプリを潜在能力、クラウドへのアクセスを自由、アプリを選ぶことを選択、そろえたアプリでできることを機能とするたとえを用いているが、これはやはり有効であることを、上野の手際のよいセンの「潜在能力アプローチ」解説を読みながら最確認した。
社会的選択とは、どういうアプリを選択していれば人並みの生活だといえるかについての、多くの人の経験と公共的討議を経た後の合意のことである。
これにたいしてロールズの社会契約は、経験と討議の前に理性に基づいて結ぶものといってよいのだろうか。
○79ページ以降、潜在的な当事者であることと、顕在的な当事者になることの違いを論じた部分は深く納得できる。
当事者概念を無定見に広げていく愚を避けなければならない。医師である僕も、患者の人生の最後 end of the life の当事者と言えば当事者だが、やはり二次的な当事者に過ぎない。本当のニーズは本人の要求の中にしかないし、その要求を顕在化させることで、本人は社会全体に大きな貢献をなしているのである。
(ここで僕は、施設にいた障害者がアパートで一人暮らしすることを望んで、その要求を24時間ホームヘルプで実現しようとしたとき、年間1000万円以上基準超過の費用がかかることを過激に攻撃した精神科医のいたことを思い出す。「それは私たちの税金から払われるのです。そして彼女が一人暮らしをして何をしたいかというと詩を書きたいというのです。詩といっても明るく人を励ますものではない、甘ったるい変な詩なのです。この支援に何の意味があるのです。そのまま施設にいれば年間400万円程度で済むのに」と彼は言って、多くの人がそれに反論しなかった。この精神科医は納税者という意味で自らを当事者と認識していたのだ)
ここでもセンの潜在能力アプローチが有効である。当事者のアプリ選択の前に十分な潜在能力クラウドが形成されていなければならない。
虐待の被害者になる高齢者にとって、加害者である中高年の失業した息子の自立が、本当に必要なアプリである。それが今のクラウドのなかにあるのかどうかが問題なのだ。
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