上野千鶴子の明確な主張:雑誌「at ぷらす14」2012.11 上野千鶴子+山崎章郎対談「「おひとりさまの在宅死」・・・介護から家族を外して考えよ
秋田県の旧鷹巣町のことを振り返っていたら、上記の雑誌の記事を読むのが後回しになったが、この記事における上野千鶴子の立場は気持ちがいいくらい明確である。
「どんなぼろ屋に住んでいようと、おひとりさまの在宅死が最高だ。」
家族と同居していたとしても、高齢者の死期が近づいてきたなら、その高齢者が我がままいっぱいに過ごせるよう家族が外に出るべきだ。看取られるために高齢者が家を出て施設に入るなんてとんでもない。
おひとりさまの在宅死を最高のものにするためにこそ、在宅ケアサービスはある。
それは社会的に保障されるもので、家族の負担には関係がない。
介護がヒッグス粒子のようにおひとりさまの周囲を隙間なく満たし、看護が守護霊のようにおひとり様をずっとサポートする。時折、光が差し込むように医療がやってくる。
これが上野さんの描くおひとりさまの在宅死である。↑のイメージは僕の勝手な描写であるが。
*ところで、そういう上野さんから見ると、今の医師の往診は、病院での「医療モデル」を家に持ち込んでいるにすぎない。だからこそ大量の在宅医療を嘘のようにこなせるのである。
あわただしく血圧やSPO2を測り、形ばかりの聴診をしてすぐに出ていく。
したがって多数の在宅患者を担当していることを自慢する医師ほど「医療モデル」でやっている医師だともいえる。だから往診患者の数を自慢するなということ。
本当にしなくてはいけないのは「生活モデル」での診察なのに、そんなことは習っていないようだ。
そこを抜けだした医師が責任者になってしまっているときにいるときどういう態度をとればいいかについて、上野さんは鳥取の徳永進さんのことを書いている。
自分がホームヘルパーを雇って、介護事業者も兼ねて一緒に働けるような条件を作る。まぁ、それは鳥取の田舎にしか通用しない方法だが。
話を元に戻して(閑話休題)、デンマークのように自治体に雇われているヘルパーの月給が40万円なら、ヘルパーの数も増えて「おひとりさま在宅死」が可能になるだろう
日本がそこまでいくまでの道のりは長い。日本の社会が根本のところで変わる必要がある。
おひとりさまの負担についていえば、高額医療費制度に見合うような高額介護費という制度を作ればよい。
上野さんとは少し違って、より現実的な山崎さんはホームホスピス宮崎の「母さんの家」に展望を見つけている。平屋の民家を借り上げた、自宅の延長のような空間での共同生活の中での死。
しかし、それは自宅からの住み替えを前提としていることに上野さんは異論を唱える。住み替えないことに固執したい。
山崎さんは、確かにその方が安いといって、上野さんのアイデアを応援する。
上野さんはもう一歩踏み込む。
「『看取りは家族の役目、私たちはわき役』という、介護者がよく口にし、実際に看取りのため遠距離から家族を呼び寄せて何日も足止めする振る舞い、あれは正しいのか?」
「死に目に家族に囲まれていたいという信仰はもうなくしてしまっていいのではないか。」
「遠くの家族とは死ぬ前にちゃんと意志疎通しておけばそれで十分ではないのか。」
「看取りを介護職員だけでしてどこが悪いのだろう。なぜ家族を探し出し呼び寄せ、引き留めることにそれほどこだわるのだろう?」
「少なくとも、自分は子や孫に囲まれて死にたいなどという願望とは無縁だ」
ただ、「それでもさみしいと思うときがあるかもしれない」と上野さんがいうと、山崎さんはその時に備えて5人ばかりのリストを作っておけば誰かは都合をつけてくれますよ、と答えている。
*6月2日付記
「看取りは家族の役割」「介護の心は家族がもつこと 介護職員は家族の援助役」という「理念」がよく語られるが、なぜここまで家族を強調するのだろうか、と思う。それはあたかも、2013年5月の生活保護法改悪案で直系親族の扶養義務が最大限に強調されたのに似ている。
思うに、家族介護が可能な人にのみ、在宅医療・介護サービスが提供されてきたので、介護職員はそれが前提と自然に考えたのだろう。
だが、それは当たり前でも何でもないことなのである。
そのことは、まるで太古の昔から介護保険があったと考えるのに似ている。
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