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2013年1月 2日 (水)

安丸良夫「現代日本思想論 歴史意識とイデオロギー」岩波現代文庫2012(初刊2004)・・・エリック・ホブズボームの紹介・・・歴史家には三つの視点が必要・・・それは柄谷行人が言う「資本=国家=ネーション」の三つにほかならない

岩波現代文庫の新刊として買っただけで、著者の名前も知らなかったので、読み進めるリズムがなかなか掴めなかった。どういう人がこういう本を読みたがるのだろうか?

Ⅰ 思想と状況

第1章 「現代日本の思想状況」・・・こういう表題でありながら、なぜか少年関連犯罪事件が詳しく触れられている。                                      

1994年愛知県で起こった大河内清輝君いじめ自殺事件、1988年東京都足立区で起こった女子高生コンクリート詰め事件、1968年永山則夫連続射殺事件、1980年川崎市で起こった二浪中の次男による両親金属バット撲殺事件、1977年東京都北区で起こった家庭内暴力を繰り返す開成高校生を両親が絞殺した事件、1992年浦和市で起こった家庭内暴力を繰り返す長男を東大卒高校教師の父親が刺殺した事件、1988年の連続幼女誘拐殺人事件

最初はこうした事件を一見乱雑に列挙するのが不思議だったのだが、著者が民衆の生活史を専門にしていることが次第にわかってくると納得できた。こういう事件の中に現代日本思想の背景を見ようとしているわけである。

第2章 「戦後思想史の中の『民衆』と『大衆』

丸山真男が、鶴見俊輔」の漫画・大衆芸能研究など日常性重視の思想は認めながら、日本有数の名家出身としての日常感覚は信用しないと言ったのが面白い。

久野 収の「市民」の定義:職業を「通じて」生活を成り立たせている人間。職業と生活が一体の身分制社会から解放されて、職業の場と生活の場が分離されることが、市民誕生の条件だと言うことである。

◆これだと、専業農家は市民になれないが、兼業農家は辛うじて市民に成ることができる。

第3章 「天皇制批判の展開」

戦前の天皇制は地主と大資本家の上にまたがる絶対主義(コミンテルン32年テーゼ)なのか、中小自作農民層からの天皇への支持を利用しながら権力は特権官僚と軍隊にあったボナパルティズムなのか。

野坂参三が、天皇制の半宗教的役割に論及したことは当時は画期的だった。その先に丸山真男の精神構造としての天皇制研究がある。民主制は独裁制と対立するが、天皇制はそうではないと彼は考えていた。

Ⅱ方法への架橋

第4章 表象と意味の歴史学

歴史学は、国民国家の一典型としての日本を発見するが、民衆史としての民俗学はそうした鮮やかな日本像をまだ提示しえていない。両者が一体化しない限り、日本社会像を描くことは出来ない。

スピヴァクに学ぼうとする流れもある。

第5章 丸山思想史学と思惟様式論

丸山は近所に住む三木武夫を説得して、自民党に対抗する新党結成を促していた。

思想史家としての丸山は、歴史家 石母田 正よりずっと蘊蓄があったが古代・中世史の研究者としては、プロの石母田 正に到底及ばなかった。

石母田 正は丸山を尊重して丸山の「日本の歴史意識の古層」を正面から批判しなかったが、それは結局マルクスの言うアジア的共同体の問題に包摂されると処理している。

丸山が古層と言おうと、原型と言おうと、音楽になぞらえて執拗低音と言おうと、著者から見ると、そういうものは近世の社会関係が作り出している意識を古代に投影しているだけの可能性が高く、危うい考えである。

第6章 20世紀日本をどうとらえるか

◆事実上、この章だけがいま読むに耐えるもののように思えた。

イギリスのマルクス主義歴史家 エリック・ホブズボームに私たちは学ばなくてはならない。

ホブズボームは、資本主義が成熟していく長い19世紀(1789-1914)と、二つの大戦、社会主義国家の生成と消滅、多数の国民国家の誕生を通じて資本主義世界経済システムが市場経済と代議制民主主義を世界に貫徹させた短い20世紀(1914-1991)という時代区分を提唱した。

しかし歴史はそのような大雑把なものではなく、それに還元できない広範な個人の体験の集積ではないのか?アウシュビッツ、南京、ヒロシマ、ナガサキ、沖縄等の体験が消えてしまう歴史はありえない。歴史家は見えにくくなってしまうそれらの体験の証人となる責任がある。

そのとき、三つの視点が必要になってくる。

①世界資本主義システムが地球上のすべてを包摂していく過程として歴史を大きく捉える視点

②世界資本主義システムと複雑に反応し合っている国民国家を正確に捉える視点

③上記二つから完全に規定されることなく、教会・学校・地域共同体等の中間団体を作りだしてそれらに支えられている民衆の生活世界が連綿として続いていることを見抜く視点。丸山の「古層」はこの視点の反映である。

これは結局、カール・ポランニ―がいう交換(資本主義)、再分配(国家)、互酬(民衆社会)、あるいは柄谷行人が言う資本=国家=ネーション、民医連が言う、資本―国家ー非営利協同セクターの3者の併立ということにほかならない。

あとがき

2001.9.11事件への向かい合い方

①証拠もなくオサマ・ビン・ラディンを犯人と断定し、彼らへの戦争を始める(ブッシュたち)

②証拠もなくオサマ・ビン・ラディンを犯人と断定しながらも、軍事行動には反対し、国連、国際組織による処罰を求める(日本共産党)

③証拠もなくオサマ・ビン・ラディンを犯人と断定せず、軍事行動には反対し、しかしテロリストたちを狂信者として、国連、国際組織による処罰を求める(サイード)

④オサマ・ビン・ラディンは犯人でないとし、彼との対話を求める(チョムスキー)

著者の立場は④である。日本史研究者として、日本近代史上の大半のテロ行為は自立的小集団で行われたことから彼はそう類推している。一つのテロ行為が成功する背景には、実際には実行しないがそれを考えている多くの小集団があり、警察活動によってはテロの防止は不可能である。したがって残るのは粘り強い対話しかない。

◆いろんな有名な思想家の名前が出てきて、興味がそそられるところが多くあるのだが、最後の最後に、日本共産党批判が書き込まれるあたり、よくわからない。

民衆思想史、っていったい何だろうという疑問だけが残った一冊である。

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