若手政治学研究者 木下ちがや氏とのFacebook上の対話・・・僕が勘違いしたようだが
今日のFacebook上の対話で僕は認識を新たにしたことがあった。今回の選挙で私たちの周りに何が進行しているかを、若手政治学者 木下ちがや氏が鋭く指摘してきたのだ。
労働者階級中層と下層の分裂こそ現代の危機である。
(*僕が思うに、労働者階級の上層と中・下層の分裂はとっくに社会党と共産党という形で現れており、それは致命傷にはならなかった)
レーニンは「大会への手紙」という政治的遺書で「労働者と農民という2大階級の同盟が失われるとき共産党も没落する」と言ったが、上記の分裂も革新運動体の消滅を意味する。
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木下ちがや:
いやそうだとおもいますよ。
僕は何もやってないからいうのもなんだけど、非正規の労働運動とかもっと大事にしないと、正直、「公務員バッシング」に含まれている権威主義批判の的になる。
木下ちがや:
ちなみに創価学会も同じ問題を抱えている。
今回公明党が票を減らしているのもそれにあたる。全体的に、戦後民主主義+高度成長の過程で形成された中間集団の危機が、今回の選挙結果の背景にあるとおもう。
野田:木下さんの意見に触発されるところ大です。
民医連の職員も、正規職員部分は、非正規職員や請負の形式で働く労働者が自分の職場に大量に投入されていることに格別問題意識も持たず、日々を過ごしています。
一例をあげると、医療費自己負担も、大半の事業所では共済組織の存在で実質3割には遠い(それは公務員も同じでしょうが)ため、目の前にいる本当に3割の自己負担にあえいでいる患者と自分の格差には敏感になれないでいます。
このように変革の行動を起こさないことが、自己の利害の上で有利になると思っているという現状をどう変えるか、真剣に考えないと、民医連が諸運動の「架け橋」として統一戦線づくりに大きな貢献をしようという構想が水泡に帰します。
よく考えてみます。
木下ちがや:
野田先生、そうですね。さらにつづけて言うと、小泉構造改革は、「格差の拡大」という点で問題視されますが、今回の選挙でおもったのは、そうした格差に抵抗する社会的中間集団(働く貧困層)と、それをささえる(より上層の)中下層中産階級のメンタリティ(→連帯心) の解体を促進したことに重大な問題があったんじゃないかとも思います。抵抗力あるいは抵抗の選択肢を考える足場を奪ったのではないかと。
*( )は僕の追加
野田:
木下さんのおっしゃる所を分かりやすく言うと、労働者階級中層と下層の分裂こそ現代の危機である、ということではないでしょうか。
レーニンは有名な遺言で「労働者と農民という2大階級の同盟が失われるときロシア共産党も没落する」むねを述べましたが、労働者階級中層と下層の分裂はより深刻に革新運動体の消滅を意味するのではないでしょうか。無駄話として、最近僕は雑誌『詩人会議』に「杜甫は死ぬことができない」と言う下手な詩を掲載してもらいましたが、「レーニンは死ぬことができない」というもっとへんてこな詩が書けそうです。
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ここで意見のすれ違いがはっきりする。上記の( )で示した僕の追加は木下氏の考えとは違ったようだ。木下氏は中下層中産階級がその利益を代表する中間団体を作る、その作り方が緩まったとみているのである。
僕が木下氏の意見を読み違えたのだが、僕の意見は意見として成りたつと思うのでこのままにしておく
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木下ちがや:
中間集団というのは包摂型(労働組合、業界団体、宗教団体、あるいは団地の自治会とか)と、代弁型(NGO,NPO)に区別されると思います。包摂型が、特定の社会階層全体を丸ごと底上げし、政治意識を社会階層全般に浸透させていくのに対して、代弁型はあくまで社会階層の要求を「代弁」するのみで、政治意識のかい離を生み出します。包摂型のほうの大衆運動は、昨今「動員型」などと批判されますが、それが日常・文化レベルの社会意識まで包括した一体性を有しているゆえにとりわけ選挙などでは有力な集票組織たりえました。結合・編成様式、イデオロギーは違うものの、高度成長期に増大した共産党、創価学会、労働組合、業界団体、町内会やら自治会やらは、近代化に対応する中間集団として保革の政治の軸をつくってきました。2000年代に入ると、NGO,NPOといった代弁型が中間集団として注目され台頭していくのに対して、包摂型はどんどん力を失っていきました。小泉構造改革はそうした流れを決定的に促進していきます。
代弁型、包摂型ともに、リーダー層の理念が同じリベラルあるいは社会民主主義的なものだとしても、集団の結合形態の違いが意識の違いを生み出していく。まさに存在が意識を規定するわけです。
この問題については、前の安倍政権の時に類似することを「現代思想」に書いたので、関連する一節をはりつけます。
・・・以下はとても長いので省略
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