« 健康権と生存権に関する議論のメモ | トップページ | 「日本の科学者」9月号の座談会「2011年以降の社会運動をどう見るか」木下ちがやほか »

2012年8月24日 (金)

生活保護バッシングと自己責任論をめぐって ・・・・どうしたらなくせるのか

民医連の理事会で、青年職員の間に自己責任論が強まっていること、とくに生活保護受給患者に対する態度としてのその現象に対する対策を議論していた。

その中で僕は以下のようなことを考えた。

息が酒臭く、身なりも汚なく、礼儀も知らず、言葉は荒く、場合によっては直接的に暴力的でもある患者に対しては、多くの病院職員が嫌悪感を持つのは当然である。それが、政府の宣伝に影響されて、貧困は自己責任だという思いを強めているのである。

ごく稀に、そのような状態の背景にある人間存在としての哀しみを鋭く感じ取り、そのような人たちに特別愛着を覚える職員がいる。おそらく、その職員の生育の歴史が貧しい人たちへの共感を育てたのだろう。例えば、マザー・テレサが持っていたような特性である。

だが、僕は、そのタイプの職員を礼賛して、全ての職員にそうであることを求めることはできない、と思う。それ自体無理なことだし、今のような病院の脆弱な体制では、患者がそのタイプの職員に当然のごとく依存を深めたときに、その職員の担うはずの重すぎる負担を援助することが期待できないからだ。

貧しくて礼儀を知らぬ患者に大抵の青年職員が直ちに嫌悪感を感じること、ごく稀な人が胸をかきむしられる同情にかられることも、実は、認識では同じレベル、すなわち、感覚や感情と密接につながった直観、人間特有の認識様式のうちSystem1と名付けられるものにおける話である。

貧困や生活保護受給に対する自己責任論を克服して行くために必要なのは、そこを乗り越える理性的、倫理的なSystem2の認識を個人のなかに育てることであり、同時にそれを可能にする組織づくりである。そのなかでは健康の社会的決定要因の存在の認識と、それによって実現の可能性を得ている健康権への展望が決定的に重要である。

そのような丁寧な社会保障論の教育と政府宣伝への反論、そしてそれを支える職場作りが、貧しい人たちに寄り添う認識と態度を作るのである。

ああ、だが、それはあまりにステレオタイプな「正しい」話だ。そんなことで本当に自己責任論が克服できるのか?

そう考えていたら、まさにそのとき久保田さんという理事さんが、僕が昔書いた「山田洋次の二枚腰」というブログの文章を引用して発言してくれた。

(http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2010/02/post-3938.html)

引用してもらったのは以下のような内容である。

同じ結婚式でも、「男はつらいよ」第一作のさくらの結婚式でのエピソードと、「おとうと」の中での姪の結婚式でのエピソードはあまりに明暗が違いすぎる。前者は幸福な話であるが、後者は繰り返して見るのが嫌になるくらい陰惨そのものである。

実は山田洋次は以下のことを声高に語らず、たとえ自己責任ゆえの生活崩壊であったとしても人は人を許容しなくてはならないとしている。山田洋次は、きっと貧しい人に自然に心が寄り添う人であり、それを人間の本性として考え、それが自然に発露する姿を描くことにことに自らの映画作りの意義を与えていたのだろう。だが、映画はもっと別のことを描いていた。もしかすると僕の言いたいことに山田洋次自身は気づいていなかったかもしれない。いや、それは彼の聡明さを考えるとありえないようだ。ともかく僕が言いたいことは「男はつらいよ」と「 おとうと」の結婚式の違いを作ったのは、自己責任ではありえず、ここ3、40年の格差の進行にほかならないということである。

生活保護受給の自己責任論を強めているのは、社会格差勾配の急峻化、およびそのために自己責任論を唱える人も含めて多くの人が追い込まれている不安に他ならない。それを見落としての教育や、政府宣伝への反論のみで解決しようとしても無理がある。

社会格差の急峻な勾配が緩和され、社会全体に広がる不安が少なくなれば、愚行や偏見も減り、青年の間に強化されている自己責任論も消えて行く。久保田さんはきっとそう言ってくれたのだろう。

ただ、多くの理事にうまく伝わらなかったのは残念だった。

*教育か社会改革か、という話は昔からのものだ。レーニンと結婚したクルプスカヤは、初めてレーニンに会ったとき、「教育委員会でロシアを変えて行きたい」と熱弁をふるっている青年に、「どうぞ勝手におやりなさい」といってレーニンが無遠慮に笑ったことを強烈な思い出として書き残している。それは彼女のそれまでの人生のなかで出会ったことのないような冷酷な笑いだった。そのような笑いはレーニン特有のもので、結婚後、相当のち、もうレーニンが晩年に近くなってようやく消えたのである。

久保田さんも思い切って高笑いしてみれば、みんなも発言の意図に気づいたかもしれない。


**しかし、現代はレーニンの時代ではない。彼の時代は部隊が機動戦で社会格差をなくしてしまえば、そこに基礎をもつ自己責任論や差別感を粉砕できると考えるのが普通だったかもしれないが、今は、機動戦で社会が変わる時代でなく、陣地戦で初めて展望を得ることができる時代である。陣地戦の中では教育が決定的に重要になる。なぜ自分が自己責任論にとらわれて行くのかを内省できるような教育を行うことが、格差を緩和する運動に加わる人を作り出して行くのである。そういう意味で、教育と運動は相互に依存する関係にある。だとしても、基本的には教育だけでは無力で、運動の実力によって社会格差をなくすとき、貧困の自己責任論は消えて行くのである。


|

« 健康権と生存権に関する議論のメモ | トップページ | 「日本の科学者」9月号の座談会「2011年以降の社会運動をどう見るか」木下ちがやほか »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 生活保護バッシングと自己責任論をめぐって ・・・・どうしたらなくせるのか:

« 健康権と生存権に関する議論のメモ | トップページ | 「日本の科学者」9月号の座談会「2011年以降の社会運動をどう見るか」木下ちがやほか »