「日本の科学者」9月号の座談会「2011年以降の社会運動をどう見るか」木下ちがやほか
僕は日本科学者会議に関してはほとんど幽霊会員に等しい存在だが機関紙「日本の科学者」だけは目を通すようにしている。
その最新号、2012年9月号に、1971年生まれの木下ちがや氏を最年長とする若手社会科学研究者たちの座談会「2011年以降の社会運動をどう見るか」が掲載されているのに気付いて、月曜日の始業前にさっそく読んだ。
木下ちがや氏が「新自由主義の戦略は、中産階級と労働者階級を分断して、福祉国家的要素を解体する所にある」(*野田改変)と言っていることは、一昨日の民医連評議員会で話題となった「青年職員の間に広がる自己責任論」の根源が新自由主義戦略そのものにあり、新自由主義戦略そのものを止めさせることの方が青年職員への教育より優先することを示唆する。
しかし新自由主義戦略を止めさせる力は、その被害者たる当の青年職員が立ちあがるより他に道はないのである。そこに教育が占める位置づけは非常に小さい。
そのことは、平和教育などとは全く別なところで、青年たちの反原発運動が高揚したことからも推測できる。この辺はぜひ木下氏自身を民医連に読んで交流してみたいところである。
だが、おじさんやおばさんたちは、全く青年を教育せず、野放しにしてもいいものだろうか。それでは、当のおじさんやおばさんの気が済まず、彼ら自身のストレスになるだろう。そういう時は、当の青年たちの迷惑・ストレスを顧みず、熱い講義を企画すればよい。
それが青年のためでなく、自分自身のためだと思っていることが肝要である。その講義を文句を言わず聞いてくれる青年を発見するところにこそ未来があるだろう。
それから、座談会参加者の皆さんが話している、2011年以降の運動の特徴とされる「脱中心性、水平性」こそ、私たち民医連がいち早く、自分たちが真っ先に諸運動の「架け橋」になるぞと、総会で決意した背景である。しかし、おそらく、「架け橋」という言葉に賛成した大抵の人がそうは思っていない気がするので、あえてここで強調しておこう。
また労働組合がなぜ同じような役割を果たしきれないかについて、座談会参加者たちは企業内労組として自己利益追求の閉じた集団になっているし、「特権集団」「既得権益集団」として新自由主義から攻撃される余地を残しているからと説明している。基本的に正しいだろう。
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