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2012年8月19日 (日)

額田勲先生がなくなって1ヶ月

先日、駐日キューバ大使の帰任に当たっての有志の送別会に向かう車中で額田先生の死亡の話を聞いた。7月12日とのこと。72歳だった。前立腺癌発病のことは自ら本に書かれていたので、その進行だったのだろうか。

卒業した大学は別だが、卒業年度が1年違うだけの額田先生とは何度か会っている。北九州の新中原病院での初期研修ではすれ違ったが、兵庫民医連を出て浪人していた彼を神戸市板宿の自宅に尋ねたことがある。

僕は卒業後4年めで、小野田診療所長をしながら、なんとかもう一人山口民医連に医師を獲得して、ごく小さくても良いから自前の病院を作りたいと日々焦っていた頃である。ヨシズが掛かった平屋の座敷でスイカを僕に勧めて、兵庫民医連が自分をどう処遇したかを語りながら、自分も病院をつくる計画があるから山口には行けないと僕の申し出は断られた。

その後、神戸みどり病院を作り、神戸生命倫理研究会を発足させ、何冊も本を書いて大活躍されたことはよく知られている。宇部には一度講演にきて頂いた。そのとき、なぜか僕との個人的な会話でイタリア共産党に見習わねばならないと強調されたが、これはさすがの伝説的なカリスマ学生政治活動家も読みを間違えたのだと思う。

僕の初期研修の指導医だった天衣無縫の人 野元先生が新中原病院の後身健和総合病院を退職したあとを額田先生が自分の病院に引きとられたが、彼は間もなく脳動脈瘤で死亡した。その野元先生の思い出を雑誌「民医連医療」のエッセー欄に書いたところ、額田先生から手紙を頂いた。野元先生の死が出てくる岩波新書の自著を、著者贈呈分として岩波書店から送っても頂いた。

実は、その本の後半に同志の癌闘病として描かれる北海道民医連の幹部 森谷(もりや)先生こそ、山口民医連が病院をつくるときどうしても必要だった医師支援を決意してくれた人だった。居並ぶ反対論者を抑えて、森谷先生が「その話、面白いよ。いいよ、医者を一人2年間送るよ、それでなんとか病院を始めることができるんだろう?」と言ってくれた新宿駅小田急百貨店8階の中華料理屋の場面は30年経った今も鮮明に覚えている。まだ30歳にならなかった僕はそこで子供のように泣いて、周りをあきれさせたのだったが。

いまこそ額田先生にはもう一度あって議論したいことがあった。僕が考えている健康権の構成の是非を先生に聞きたかった。

こういう風に大事な機会をうしない、取り残されて行くことを、歳をとるというのだろう。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

野田先生こんにちは。初めまして。宮崎県の県立宮崎病院外科の下薗と申します。宮崎医科大学卒業後昭和56年から60年まで、健和会で野元先生の下で研修させて頂きました。額田先生の訃報に接し、ガックリ来ております。野元先生が尊敬されている先生でしたし、私もみどり病院に誘われた事がありますので、寂しい限りです。野元先生は末次専務との確執でお辞めになったと認識しておりましたが、「暴力事件」とは何ですか?よろしかったらご教示下さいませんか。野元先生の死が出てくるという額田先生の岩波新書の題名もご教示頂けませんか?突然のメールで不躾で誠に申し訳ありませんが、よろしくお願い申し上げます。今後ともよろしくお願い致します。

投稿: 下薗孝司 | 2012年9月19日 (水) 11時27分

下薗先生、コメントありがとうございました。

野元先生の死に触れられている本は岩波新書「がんとどう向き合うか」です。

野元先生が健和会を解雇された件については僕は直接見聞しておらず、研修が同期だった大脇先生から聞いた話なので、彼に聞いていただきたいと存じます。

それはともかく、野元先生や額田先生を失ったことを一緒に悲しんでいただける方からご連絡いただいたことに感謝します。

投稿: 野田浩夫 | 2012年9月19日 (水) 22時18分

下薗先生。一部訂正します。
今朝「がんとどう向き合うか」を取り出して読み直してみると、森谷先生のことは第6章に書いてあるものの、額田先生の後輩二人の相次ぐのくも膜下出血死のことは書いてありませんでした。僕の思い違いで、それは「命織りなす家族」岩波書店の方で読んだのかもしれません。自宅に帰らないとこの本は探しだせないので、確かではありません

投稿: 野田浩夫 | 2012年9月20日 (木) 11時30分

下園先生。記憶はまたく不確かなものだとわかりました。「いのち織りなす家族」岩波書店2002年を取り出すと、冒頭に、実名で49歳の中尾医師と51歳の野元医師が脳血管死を遂げたことの記述がありました。

以上を再確認していると、この本を手に取って初めて野元先生の死を知った時の衝撃がフラッシュバックしました。

それが相当に大きかったので、普通は起こらない本の内容の誤った記憶が起こったものだと思います

投稿: 野田浩夫 | 2012年9月21日 (金) 09時11分

野田先生、大変失礼致しました、本日この欄に気づきました。ICに疎い私は、この様な形で御返事を頂けるとは認識しておりませんでした、誠に申し訳ありません。しかし感激しております。「いのち織りなす家族」を早速注文させて頂きました。大脇先生にもお手紙を出して見ます。有り難うございます。野元先生からは沢山の事を学びましたが、30年経過しても今だに変わらず生きている言葉があります。それは「患者さんの事で悩んだら、患者さんにとって一番いい方法を取りなさい。そうすれば自ずと道は決まってくる」というものでした。卒後6年でこの言葉を言われた野元先生は宇宙人だったのでは?と思っています。今後ともよろしくお願い致します。

投稿: 下薗孝司 | 2012年10月19日 (金) 11時14分

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