カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」早川書房・・・「犠牲」の物語として、奴隷化されつつある非正規労働者、再び現実化しつつある戦争において大量死を約束されている青年の未来を語るものとしてリアリティを感じさせる
自分がカズオ・イシグロの小説を読むことなどきっとないだろうと思っていたが、雑誌「現代思想」2012年6月号の尊厳死問題特集 198ページ 大谷いづみ「犠牲を期待される者」で触れられていたので興味を感じ手に取ると、あっという間に引き込まれて読み終えた。
映画化されたことも知って、スチール写真をいくつか見たが、小説で想像したイメージと俳優たちが酷似していることにも驚かされた。よほど確かな描写力を持った作家と映画監督の組み合わせだったのだ。
まず心に浮かぶ感慨は、臓器移植目的のクローン人間だろうと、リアル世界の僕だろうと遺伝子の載り物としての役割に変わりはないということだ。
僕らの心の軌跡は、生物も非生物の区別もない物質代謝の上に浮かぶ一回限りの特殊な現象にすぎず、そのある部分は夢か幻想に等しいだろう。
その夢か幻想に等しい部分に、僕らの生きている目的の大部分が埋まっている。その存在と夢の裂け目のようなところから溢れてくる悲しさに打ちのめされるのが僕らの運命である。
しかし、このようにひたすら繰り返されてきた無常感的感慨を改めて確認することは、皮相でつまらないことである。品のない文学趣味とでも言っておこう。
むしろ、この作品はふたたび現実化しつつある戦争における青年の大量死の予感の作品としてリアリティを持っている。
あるいは結婚して子どもをもうけることも期待されない存在としての、圧倒的多数の非正規労働者の奴隷化の物語化とも解釈されうるだろう。
極端な低賃金雇用の場としての(高齢者)介護に多くの青年がせきたてられていたり、さらには極端な貧困の中で臓器売買に巻き込まれる人々がいるのは現実の話で映画での話ではない。
そう思ってみれば「わたしを離さないで」という題名は、大谷いづみが指摘するように、「私を一人で死なせないで」という意味でもある。
今日の多くの青年が生きた証も残せないで殺されていく悲鳴そのものを、この言葉の中に聴くべきではないか?
| 固定リンク
« 7/19-7/22 週末の比較的長い出張・・・鳩山氏のデモ参加、健康の新しい定義を読む、医療安全の三つの軸について考える、QOL≒SDHを主張する、診療所の行く末を考える | トップページ | 山口県知事選挙:全日本民医連から山口民医連に激励の呼びかけ »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 雑誌 現代思想 6月号(2016.06.04)
- 内田 樹「街場のメディア論」光文社新書2010年(2016.05.11)
- 「『生存』の東北史 歴史から問う3・11」大月書店2013年(2016.05.10)
- デヴィッド・ハーヴェイ「『資本論』入門 第2巻・第3巻」作品社2016/3 序章(2016.05.04)
- 柄谷行人 「憲法の無意識」岩波新書2016/4/20(2016.05.02)
コメント