「健康の再定義」・・・BMJ(イギリス医師会雑誌)2011年343ページ「健康をどう定義すべきか」・・・問題は「医療の社会化」ではなく、「社会の医療化」の方だ・・・過度に医療に依存しない社会にするために
雑誌「現代思想」の6月号の特集「尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル」は相当に興味深いものだった。
なかでも国立新潟病院副院長の中島 孝医師がQOLについてくわしく解説した「尊厳死論を超える」という文章は新しく知ることが多く、特にその中で紹介されていた上記の論文は現物をぜひ読んでおかなくては思わせるものだった。
大学の先輩から原文を貰ったので、さっそく日本語訳を作った。3ページほどの短文なのでここにアップしておくことにした。
ただし、この特集は全体にわたって読みやすいメモを作ると先にブログに書いてしまったが、結局、それは手つかずで後回しになり続けている。できないままかもしれない。
「私たちは健康をどう定義すべきか
健康を〔完全に良好な状態〕とするWHOの定義は慢性疾患優位の現在にはもはやふさわしいものでなくなった。
Machteld Huberらは、健康の定義を、社会的、身体的、感情的困難に直面した時に発揮される適応・変化(adapt)と自己管理の能力を重点にした方向に変えることを提案している。」
現在のWHOの健康の定義は1948年に定式化されたもので、健康を「身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であり、単に病気や障害がないというだけではない」としている。
その時においては、この定式化はその広がりと大きな展望ゆえに画期的なものだった。それはただ「病気がないことが健康だ」とするそれまでの消極的定義を打ち破り、身体的、精神的、社会的な領域を健康に包含して見せたのである。
この定義は60年間批判され続けたが、決して変わろうとしなかった。
しかし、批判は今ふたたび強くなり、諸国民の高齢化と疾病傾向の変化のなかで、この定義は非生産的にさえなろうとしている。
そこで、この論文はWHOの健康の定義の諸限界をまとめ、それをより有用なものにするため、オランダで開かれた国際的な健康問題専門家会議で展開された提案を説明するものである。
WHO定義の限界
WHOの定義には多くの批判があるが、それは健康を「完全な状態」として、絶対的なものと表現している点に集中している。
一番目の問題は、そのことが意図せず社会の医療化に寄与していることである。
完全な健康を求めることは「私たちの大半が大半な時を不健康に過ごしていると判定してしまう」ことになる。何でもかんでも病気にしてしまい、医療システムのほうから社会を見る姿勢を強めて行くことは、専門家組織も巻き込んで、医療テクノロジーと製薬工業への人々の傾斜・依存を強化するものである。
新しいスクリーニング検査技術は病気の原因にはなりそうもないレベルの異常値を異常とだと叫びたて始めるし、製薬会社は以前は病気だとは思われなかった状態のために使う薬を作って利益を上げようとし始める。
そのため治療開始の閾値はどんどん下がり、治療を受ける人は膨れ上がる。
例えば血圧、脂肪値、血糖値についてだ。
完全な健康状態ばかりがイメージとして宣伝され続けられると、たった一人の人だけに有効なようなスクリーニング検査や高価な治療を受けたいと言い始める人をたくさん作ってしまう。
それは医療への依存を深め、医療行為に潜む危険をより高度にするにしかならない。
二番目の問題は1948年からみると人口構造と疾病傾向が大きく変化したことだ。
1948年には急性疾患が病気の主流で、慢性疾患の人は早く死亡していた。その状況の中でWHOは頼りがいのある大きな展望を明言したのである。しかし、その後、疾病傾向は変わり、公衆衛生手段も変わった。すなわち、栄養や清潔、衛生、さらにパワフルな治療手段への改善があった。慢性疾患を持ちながら数十年も生きる人が世界中で増えつづけている。インドのスラムでさえ慢性疾患が死因の主流である。
慢性疾患を持ちながら高齢化することは普通になっているし、慢性疾患は医療システムの中で最も経費のかかるものになって、医療システムの存続にとって脅威になっている。
この状況の中で、WHOの定義は慢性疾患や能力障害を持っている人を(かるはずみに)病気だと宣言してしまうことにより、かえって非生産的なものになっている。
それは、生活の中で常に生まれてくる身体的、感情的、社会的な困難を自律的に処理する人間の潜在能力、慢性疾患や能力障害があっても充実感や健康だという感じを持って働くことのできる人間の潜在能力の大きな役割を、小さく小さくみなしてしまっていると言わざるをえない。
第三の問題は定義の操作性の件である。
WHOは病気を分類し、健康や機能障害やQOLを表現するシステムをまだ十分に発達させていない。それでもl健康を完全な状態として定義してしまうために、その定義は実用的でないままでとまっている。というのは、「完全」ということになると扱うこともできなければ、測定も可能でないからである。
再定式の必要性
これまで、様々な定義変更の提案がなされてきた。
最も有名なのはオタワ憲章で、身体的条件と同じように社会や個人の援助資源を強調したものである。
しかし、WHOはこれらのうちどれも取りあげることがなかった。そのため現行の定義が持つ限界が健康政策を阻害する場面が次第に増えてきた。
例をあげると、健康の定義が予防プログラムと医療のアウトカム評価を決定してしまうのであるが、平均寿命一つとっても、ただ健康になること(health gain)というのは社会参加よりも関連が弱いし、困難への対処(コーピング)能力が大きいことの方が完全な治癒を求めることより関連が強く、現実的でもあるようだ。
健康の再定義は大きな展望を持った複雑な目標である。多くの視点が考慮される必要があり、多くの利害関係者に相談する必要があり、多くの文化を反映する必要があり、さらに未来の科学や技術の発展にも目配りしなければならない。
そして、オランダの専門家会議では、現在の静的な定式化ををより動的な定義な方向に動かす必要があるということが広く支持された。
回復力(レジリエンス)あるいは対処(コーピング)能力に基礎を置いて、人間の統合、均衡、健康感を維持し拡大することをこそ健康だとする定式化の方向にである。よく使われた表現は「適応・変化し自己管理できる能力」である。
会議参加者たちは新しい定式は一つの定義と呼ぶべきかどうかを問題とした。というのは、新しい定式は境界設定と正確な意味づけに到達する試みを含んでいたからである。質問者たちは定義は概念あるいは概念の枠組みを置きかえるものと考えていた。
参考までに、社会学者Blumerによると、一般的な概念というものは一般的にみんなが賛成する方向の特徴づけを表現するものである。
一方、操作的定義となると、たとえば目標達成度の測定のように実生活において必要となるものである。
「健康とは、適応・変化と自己管理の能力である」という概念を使用する第一ステップは、健康の三領域-身体・精神・社会-に対しそれを確認し、特徴づけることである。
以下の例示で、このことを説明しよう。
身体的健康
身体領域では、健康な生体は「アロスタ―シス」 -環境変化が生じても生理学的恒常性(ホメオスターシス)を維持すること- が可能だということが重要である。
すなわち、身体的=生理学的なストレスに直面したとき、健康な生体は防御反応を発揮し、傷害の可能性を減らし、(適応・変化した)平衡を保持できる。
もし、この生理的対処(コーピング)戦略が成功しなければダメージ(あるいはアロスタ―シスへの負荷)が残り、それが最終的に病気をもたらすのである。
精神的健康
精神領域で、アントノフスキーは【SOC=首尾一体感覚】を、物事に対処し、心理的ストレスから回復し、トラウマ後ストレス障害PTSDを防ぐことを可能にする一つの要因と述べている。
SOC=首尾一体感覚は困難な状況において総合力、管理力、状況認識力を強化できる主観的能力からなる。
適応・変化し自己管理する能力を強めることは主観的な健康感を改善し、身体と心の良い相互作用に結びついていく。たとえば慢性疲労症候群の患者を認知行動療法で治療すると症候と健康感への良い効果があることが報告されている。
このことは脳の灰白質の容量増大と結びついている。もちろんそのことの因果関係やこの関連の方向はまだ明らかではないが。
社会的健康
社会的領域では、健康に関して幾つかの次元が考えられる。
人々の持っている潜在能力と人生への責任を満たしきる可能性、病気があってもある程度独立して自分の人生を管理できる能力、労働などの社会的活動に参加する能力などである。
この領域の健康は機会と制約の間の動的なバランスであり、一生を通じて変化し、社会的環境的な困難のような外的条件に影響されるものとみなされる。病気に対して上手に適応すれば、人々は働き、社会活動に参加できるし、制約があっても自分を健康と感じることができる。
このことはスタンフォード慢性疾患自己管理プログラムの評価でも示されている。それによると、慢性疾患患者を広範に追跡していったとき、患者が生活管理法と疾患対処法をよりよく学ぶと、健康の自己評価の改善、苦痛の軽減、疲労の少なさ、活気の増大、トレーニングの後に障害や制約を感じることやの減少を見せることがわかった。
その結果、医療費も少なくなった。
もし、人々が困難への対処法の戦略を上手に身につけられたら、(加齢による)機能障害(impaired functioning)があっても、それによるQOL低下を強く感じるということはなくなる。これが能力障害(disability)パラドックスといわれる現象である。
健康の測定
健康の一般的概念は企業のマネージメントや政策に有効であると同時に、医師の日常的患者コミュニケ―ションにも役立つ。というのはそれが患者のエンパワーメント(たとえば、ライフスタイルの変更)に焦点を当てており、それは薬で症状をなくしてしまうというのでなく患者に説明することを重視するからである。
一方、操作的定義は目標の測定、研究、介入の評価に必要なものである。
測定は必要な異なる操作を一本に体系化する構造的な健康の枠組みによって成り立つものである。
たとえば、同じ健康状態といっても個人のそれと地域人口のそれとを区別する仕方、また健康指標の主観的なものと客観的なものの区別が必要である。
また測定手段は適応・変化し、自己管理する能力と関連付けられるべきである。
これらを満たす最初の良質な操作的手段には、既存の機能状態測定法、QOLと健康感の測定などがあった。
WHOは健康の勾配を測定するいくつかの分類システムを開発している。これらは能力障害、機能、主観的なQOLや健康を評価するものである。
プライマリ・ケアにおいてダートマス共同作業グループ(COOP)/WONCA=家庭医の世界的組織)機能状態アセスメントが個人の主観的健康への洞察を得るために開発された。これが異なる社会、文化状態にたいして有効だとされている。
COOP/Wonca機能的健康評価チャートは健康のあいことなる6次元を示した。それぞれをマンガのような絵で理解しやすくさせている。それぞれ、日々の生活活動遂行能力を1から5までのスケールで測定する。
*6次元とは ①運動能力 physical fitness ②感情 feelng③日常生活活動 daily activities ④社会活動 social activities ⑤健康状態の変化 change in health ⑥健康状態全般 oveall health からなる。
これらの手段は多様な視点に関する価値の多い情報を提供している。機能から経験されたQOLまで、である。
しかし、まだ、ほとんど整備されていないものがある。個人の困難対処能力、適応・変化する能力)のような健康の視点で測定する方法、あるいは人間の身体的回復力(レジリエンス)を測定する方法である。新しい健康の定式化はこのことの研究も刺激しうるだろう。
結論
環境学者が、比較的狭い範囲の中に安定している環境を維持するための複雑な系の能力として地球の健康を記述しているように、われわれもまた適応・変化し自己管理する能力として健康の定式を提案したい。
このことは人間の健康を、測定しうる動的特徴と諸次元のセットで、概念化しようとする新鮮な21世紀の道の出発点になるだろう。
この議論はなお続けられ、色々なステークホルダーたちを巻き込むべきである。同時に患者と社会の非専門家の人たちも加わるべきである。
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