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2012年7月24日 (火)

7/19-7/22 週末の比較的長い出張・・・鳩山氏のデモ参加、健康の新しい定義を読む、医療安全の三つの軸について考える、QOL≒SDHを主張する、診療所の行く末を考える

今日までなんだかとても疲れているのは、週末の比較的長い出張がいつもとは違うものだったからだ。

といっても、会議の司会を延々と引き受けたというにすぎないのだが、それが格別苦手なことなので、僕にとっては特別な経験といってもいいだろう。

まず、木曜日昼間の4役会議の司会。4役会議といっても、副会長も事務局次長もそれぞれ10人以上いるので30人くらいの大きな会議である。8月の評議員会に出す議案を討議し、被災地のがれき処理を広域で行おうとする政府の方針の是非についても話し合う。2030年のエネルギー割合についてのパブリック・コメントも議題になった。

夜は、医療部という理事会の一専門部会の司会。これは20人くらいの理事たちの集まりで、副会長3人で担当している。チーム医療と医療連携をどう進めるかという話。これには持論を持っているので、主張したいことが多く司会としては不適当だ。

それが終わると、みんなで遅い食事に出かける。医科歯科大の若い職員らしい人たちが楽しそうに宴会をしている(これが合コンというものか?)横で、比較的暗い話題でよもやま話にふける。最近はアルコールが入ったとたんに吃音が強くなるので実は騒音が多いこういう場は苦手である。

夜、東大の川本教授に返事のメールを書こうと思いながら忘れて寝てしまう。・・・きょうまでそれを果たしていない。

金曜日の朝は医療部の会議の続き。ヘルス・プロモーティング・ホスピタル活動を促進する企画にデンマーク出身の国連職員が参加してくれるというのを聞いて興味を感じる。

ついでに、最近見たデンマーク映画では、デンマーク社会が能力の低い人の生活保障はそれなりに備えていても、その人たちの不幸は底なしに深まっていてアルコールや薬物依存が蔓延しているということを告発するものがあった、という話をするが、その場にふさわしいものではなかったようで、参加者の苦笑をよんだだけだった。

金曜日午後から、土曜午前にかけては理事会。80人くらいの会議である。ここでも司会をするが、事務局長の報告を聞くのは2回目になるのでつい居眠りをしないではいられない。理事さんたちの活発な発言に助けられる。

金曜夜は、首相官邸前のデモに地下鉄で出かける。前回は国会議事堂前駅で降りて駅構内にほとんど閉じ込められたが、今回は霞ヶ関駅で降りると自由に地上に出ることができた。しかし、デモは警察によって分断されて、全体をつかみようがなくなっている。国会議事堂に向かう道路の歩道の上にずっと立ち止り、「再稼働反対」と唱え続けるだけとなった。しかし、この辺りには立派な樹木が多い。

やや早くホテルに帰り、Facebookで鳩山元首相がデモに参加したという話を読む。数日前からデモに出たいと本人が話していたのを知っていたので、そう驚きはない。

それよりも、気になったのは仲間たちから

「どんな顔してデモに出てくるんだ、最低のやつだ」

「あんたの出る幕じゃない」

「もっとやるべきことがあるだろう」

というようなネガティブな反応が次々書き込まれていることだ。

渡辺治氏が民主党政権の性格をずっと分析し続けているのをフォローしていれば、鳩山氏が民主党の首相としては唯一、なぜ民主党が政権につくことができたのかについて、その背景にある国民の意向を正確に把握している政治家であることは学べるはずである。

野田首相などは国民の意向からみれば完全な裏切り者である。

菅前首相も裏切り者だが、支持率が低くて財界から切り捨てられ、切り捨てられることが確実となった時、「脱原発だ」と言って、すぐ取り消したカッコ悪さが目立つ。

だから、野田や菅と鳩山を同列に置くのは間違いだし、「あんたの来るところじゃない」などという反応を示すのはやめた方がいいのだ。

そのあたりのことを考えていると寝るのが遅くなった。

土曜日の午後は、八重洲ブックセンター近くの貸し会議室で開かれた医療安全の交流集会に出席。分散会の座長をし、その後の懇親会で開会あいさつをした。いずれも苦手な仕事である。医療安全は、医療者の知識・能力・適性、医療機器の安全性、事故発生時のもめごと対策の三つの軸があるという話も聞く。

意外なことのようだが、新しい課題というのは、実はチームのルールに従うべき医療者の知識・能力・適性の軸にある。いってみれば学習障害・発達障害・人格障害のある人たちの医療職への大量流入がある中で、どうすれば、それに対するフェール・セーフを作ることができるのか。チーム医療やコミュニケーション教育なんかで対応可能なのだろうか。

そもそもこの人たちにはコミュニケーションは成立しないという悲観的前提で安全を守るとすれば、あとは軍隊式にやるしかない。それが今流行のSBARなのだろうと考えてしまう。

考えてみれば日本の医学教育、医療安全はほとんど米軍由来の手法に占領されてしまった。医師の初期臨床研修などは米軍の新兵教育の直輸入である。

これもやむを得ない成行きだったのだろうか。これをここに書きこんでしまうことは若干危険だと思いながら、誰の目にも触れないことを願いながら書いておく。

翌日、日曜日は、少人数で診療所医療の今後の展望を語りあう委員会に出席。「健康権、健康戦略、健康の社会的決定要因、QOL、最近イギリスの医師会雑誌に掲載された健康の再定義」を並べて、これらの相互の関連について一時間弱かけてしゃべるが、実はまだ新しいままの発想を含んでいるので、うまくはしゃべれなくなって終わる。

考えかけのことを、自分の中で熟さないうちにしゃべってみんなの反応を見たくなる悪い癖はいつものことである。実はしゃべらないと発想が消えていくのではないかという強迫的な恐怖感が存在するのである。これを克服すれば、僕も考え深い賢い人間になれるのだが。

さて、真の地域包括ケアを発展させるとすれば、病院医療から診療所医療に軸足を移すべきだ。それを本気で実行するなら、このまま医師が増えない限りは、病院を縮小して、診療所に医師をシフトさせるしかない。はたしてそういう提案が可能かどうかという、ここでも切羽詰まった趣の議論に収れんしていく。

ただ、医療安全といい、診療所活動といい、こうした会議を重ねていくと、どこか、本来の自分のものではない主張を展開する役割に自分が担うように押し付けられていくように感じ始められる。もっと、人に優しく丁寧な視点を保った主張をしたいと思いだす。

会議が続くと、このように気分が荒れてくるのである。

ようやく会議から解放されて本を2冊買う。児玉聡君の「功利主義入門」(ちくま新書2012)と、カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」早川文庫2006である。

とくに後者は、荒れた気分をいやすのにぴったりの本のようだった。その上、犠牲や尊厳死という問題を考える上でもずいぶん示唆に富むものようである。

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