私たちの唱える新しい福祉国家は、協同組合によって資本を規制することによって作り替えた国家であり、決して幻想ではない
今日、ふと気付いたことである。
これまでのマルクス主義は、資本主義のもとで福祉国家に到達することは幻想にすぎないとしていた。「厚生経済学」という学問がそのまやかしを振りまいていると考えてきた。
しかし、現代は資本主義のもとでの福祉国家を切望している。それは不可能ではないと考えるのが普通になっている。
これまでのマルクス主義はどこで間違ったのか?
その答えは、社会経済構成体の土台の枠組みを柄谷の唱えるように変えて考えてみると浮かび上がるだろう。
これまでは生産関係を土台にし、国家を上部構造と考えてきた。これでは、生産関係は資本主義のままなのに、国家だけが福祉国家に変わるなんて幻想に過ぎないという結論になるのは当然である。
しかし、柄谷の言うように、土台を生産物の交換関係だとすれば、資本と国家と【ネーション⇒協同組合】が同一平面上でそれぞれ相対的に独立している土台のコンポーネントになる。協同組合の影響力で国家が福祉国家に変わるのは、資本の影響力を排除すれば、資本主義が土台面に残っていても可能である。
私たちの唱える新しい福祉国家は、このように協同組合によって、資本が規制され、作り替えられた国家である。資本主義がなくならなければ成立しないものでは決してない。
だが、資本と国家が残る限り新たな戦争の可能性はいつまでも残り続ける。それが解決するのは、資本主義にかわる社会主義であり、世界共和国であり、協同組合社会である。
では、生産関係という土台と、交換関係で作る土台の関係はどうなっているのだろうか。
それはよくわからないのだが、折衷的にいえば、生産力ー生産関係―交換関係は、必ずしも「生産力の上に生産関係が立ち、そのうえに交換関係がある」という段階になってはおらず(段階になっているなら生産関係土台論と変わらない)、人間生活のように3者が渾然と溶けあって存在しており、観察者が一つの視点を選ぶとき一つが浮き上がって見えるのだということになるだろう。
*レーニンの「労働者保険綱領」1912は社会保障の諸要求の根拠を「払われるべくして払われなかった賃金」に求めているから、社会保障を資本主義の枠内のものだと考えていたことは明白だろう。
**「ゴータ綱領批判」におけるマルクスは、社会保障に必要な労働生産物部分は各自への分配の前にあらかじめ全体のために控除されるとしている。これは生産手段が社会化された社会主義後のこととして当然である。
***マルクスがみた社会保障の根拠はどこにあるのだろう。人間として生まれたからには疑問なくその権利がある、社会主義社会は当然その権利を実現するという、人権=公理論にやはり立っていたのだろうか。
****センはそれを公理としてはとらえず、基本的人権を構成する各要素ごとに丁寧に行われる公共的な討議による合意と選択だとしている。
彼は、レーニンのような労働価値説を単純に採用もせず、ルソーのような自然権の立場でもないのだろう。そういう演繹的な解決をセンは嫌うのである。
より唯物論的であろうとする立場から、結局は僕もそれに賛成するしかない。
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コメント
はじめまして。
私も協同組合には常々注目しているのですが、
店頭では独自開発の商品よりも
一般のメーカー品を大々的に特売していることが多いです。
もっと、
”生活者が必要なものを、
よりよい生産品質流通で入手しよりよく廃棄できる”
よう努力してほしいのですが。
とはいえ協同組合もお金がなければ運営がままならないし、
私自身も普段はより品揃えが多かったり、
より値段が安かったりする大型店で買い物することが多いのですが。
投稿: 黄 聰基 | 2012年5月28日 (月) 19時57分
コメントありがとうございました。
私が所属しているのは医療生活協同組合で、どちらかといえばサービス提供者側になるので、消費生協のことはあまり詳しくありません。それでも生協連の機関誌などをときどき見、生協運動に関する本もいくらか買って勉強中というところです。いい商品を開発する職員をどのように養成していくのかということと、組合員の意見をどう活発にし反映していくのかという点では、消費生協も医療生協も同じ課題を抱えているのは確かだと思います。
投稿: 野田浩夫 | 2012年5月29日 (火) 13時42分