映画を撮影するということ:セミフ・カプランオール
トルコのセミフ・カプランオールが撮る映画を見ると、映画を撮影するということの本質が直感される。
僕に見えているものは、僕の外にあるものそのものではない。僕の外にあるものが、僕の網膜を経由して僕の大脳後頭葉に像を形成しているものを「自分の外にあるもの」と短絡させているのである。
しかし、僕に見えているものは、きっと僕の大脳の機能である僕の心に影響されて、歪みや色合いなど何らかの変形を受けることはまちがいない。
その変形がはっきり分かるような像をフィルムの上に表現することが可能なら、そこには作家の心が純粋に表現され、僕に伝わってきたとすべきである
[作家の表現としての写真]―[機械が撮った写真]=作家の心 という単純な方程式である。
カプランオールの映画を見た後、夜の街を自転車で行くと、あたりの風景がずっと長回しされているカメラで撮影された映画になった気がした。
そのとき、風景を変形させる僕の心を、僕は対自的に感じていたのだろう。
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