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2012年5月29日 (火)

聴濤 弘 「マルクス主義と福祉国家」大月書店2012

聴濤 弘さんが大月書店から出す最近の本では、

「カール・マルクスの弁明」は○、

「レーニンの再検証」は△、

「マルクス主義と福祉国家」は◎

だと思う。

僕ごときが評価するのは僭越というものだが、商品購入者にして一読者という立場なので許してもらおう。

さて、この本は疑問と問題の提起に終わっているところも多いが、きわめて斬新で刺激的だ。藤末君という若い人に先に読まれてしまったのが悔しいというものである。

こういう本にあうとノートを残しておくほかはない。

例によって○は、僕による書き換えもある恣意的引用なので、孫引きは絶対禁忌である。*は純粋に僕個人の意見である。この部分の引用は自由です。誰も引用しないだろうけど、ごくごく念のために。

第一章 多種多様な今日の福祉国家論

○32ページ 「生存権」保障の思想は幸徳秋水が唱えていたものである。

*その主張の源はオーストリアの社会主義者・法律家アントンメンガーから森戸辰男に受け継がれ、憲法25条に結実した流れである。それがいままた蘇ろうとしているわけだ。

*その幸徳秋水への国家テロを検討する中で、石川啄木は、今日の健康の社会的決定要因論に迫る認識を獲得した。 「我が病の その因るところ 深く且つ遠きを思ふ。目を閉じて思ふ1911」 

○33ページ 資本主義と社会主義の中間社会を想定せずにまっすぐ社会主義を目指し、現段階で生存権所得を保障しようという興味ある主張がある。

村*岡到のこと…この人は第4インターの活動家で、最近は日本共産党を一方的に支持するという変わった人だ。不破さんとの対話本もある。

*まっすぐ社会主義をめざすというのはエレン・メイクシンズ・ウッドもそうである。

**実のところ、僕は福島原発事故の後も「今すぐに全原発を停止することは非現実的だ」と当分の間言い続け、その後はなし崩しに脱原発に移行したある党の態度を見ている中で、革命へのプログラムにおいてももはや誰かの個人やどこかの組織の意見を盲信すべきでないと思うようになった。その立場で、まっすぐ市場経済に頼らない社会主義をめざすというウッド女史にすがすがしい共感を感じる。もちろん、そのプログラムははっきりしないのだが。

○37ページ 地域で共同社会(コミュニティ)を「作る」ことの大切さ。

*そのとき拠点となるのは医療機関、なかんずく民医連である。よく勘違いされるように、地域にコミュニティが今あるのではない。旧いコミュニティは消失している。残っているとしても生命力はない。本当のコミュニティはこれから僕たちが共同組織などを材料にしながら作るのである。

○EUを「ルールある資本主義」のモデルとして論じるのは、EUの現状を見てもそぐわず、きっぱりやめた方がよい。まして、アジアにはその国の人民を代表する民主的政権などどこにもない。当然中国もそうだ。いやしくも左翼たるもの、この時点で「アジア共同体」論など口にすべきでない。

*この主張は前著「レーニンの再検証」の中にもあり、あまり面白く読めなかったなかでは数少ない光ったものでもあった。

第二章マルクス主義と福祉国家

○43ページ (*アマルティア・センが属している)厚生経済学は、「資本主義のもとでも豊かな社会が実現できる」という幻想を人々に与える代表格として古いマルクス主義者には扱われてきた。

マルクス主義と福祉国家は相いれないものとするのが普通だった。

しかし、結論から先に言えば、福祉国家の具体像を提起したのはマルクスとエンゲルスだった。

○45ページ イギリスのベヴァリッジは戦後の福祉国家の基礎を作った人だが、彼自身は社会保障と完全雇用を巨大な事業であると認識し、彼が提案したものを福祉国家とはけっして呼ばない謙虚さがあった。いまマルクス主義者はベヴァリッジのこの姿勢を受け継いでいくべきである。

○52ページ ドイツ社会民主党エルフルト綱領(1891)はエンゲルスの指導下に作られたが、資本主義のもとで福祉国家(その用語はない)を一定程度実現できること、最高の福祉は社会主義のもとで実現されることが明記されている。

○58ページ 1912 レーニンの「労働者保険綱領」はエルフルト綱領をさらに発展させたもの。

レーニンは資本主義社会における社会保障が資本家負担でなされるべき根拠を、賃金は本来十全な労働力の再生産を保障するものでなければならないのに、実際にははるかに少なくしか支払われないからだとした。1918年ロシア革命の中で「社会保障」という用語が誕生した。

今回気付いたのだが、これまで僕はレーニンが社会保障の権利の根拠を賃金論、すなわち労働価値説の中に置いていると思っていた。

実はそうではなくて、労働者保険綱領では単純にその費用負担にかかわる根拠を述べていただけだった。

レーニンがそれ以上に基本的人権の根拠について考えを巡らせたということは考えにくい。

基本的人権は彼にとっては自明のことであり、無駄なことは考えないというのが彼のスタイルだったように感じられる。

だが、僕らはそうはいかないのである。

マルクスはゴータ綱領批判の中で、生産手段が社会化すれば、権力をもった労働者階級の政治的な強制力によらず、ひとりでに社会的労働生産物の一部が真っ先に社会保障のために取り分けられていくとした。これがゴータ綱領批判の中でもっとも重要な部分である。

その真っ先に取り分けられる部分=社会的フォンドがあるので、社会主義でもすぐにはなくならない人々の間の不平等が埋めあわされる。

生産場面で生じるかもしれない不平等(能力の差)は分配場面で実質的に無意味なものに変えることが出来る。

だから生産手段の社会化だけが社会主義の本質ではない。このような分配の問題も重要だ。

*日本のように進んだ工業国では、最初にとり分けられる社会的フォンドはきわめて大きく、結果として社会主義の最初から「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」状態としてスタートできる。わざわざ、不平等を強調するような「能力に応じて働き、労働(量)に応じて受け取る」という段階を経る必要はない。これは不破さんも言ったとおりである。

**さらに、障害者福祉の現状などから考えると、日本のように進んだ工業国では、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ということは社会主義を待たず、資本主義段階の福祉国家でも部分的に実現できる課題と思える。

○67ページ デンマークのエスピン・アンデルセンはカール・ポランニーが1944年に言い始め自分が受け継いでいる主張として「福祉とは労働力を脱商品化するもの」であり、労働力がどれだけ「脱商品化」しているかを測定することで福祉国家の進行度合いを判断できるとした。

たとえば、無拠出年金は労働しないのに生活していけるという意味で、年金受給者を「脱商品化」するものである。

○74ページ デンマーク社会民主党の歴史はマルクスにさかのぼる。その党の綱領はゴータ綱領に準じている。

○77ページ デンマークの福祉国家はグルントヴィの思想で作られたものでなく、マルクスとグルントヴィの合作と考えるべきものである。

○79ページ スエ―デン社会民主党もマルクスの深い影響の中で福祉国家を作った。スエ―デンは階級社会でなく市民社会だと論じるのは、多くの多国籍企業があることからも事実に合わない。

○83ページ にもかかわらずすべての社会民主主義を敵視したコミンテルンは、スエ―デン社会民主党も敵視した。スエ―デン共産党にスエ―デン社会民主党を攻撃するように何度も促した。スエ―デン共産党はコミンテルンを相手にしなかった。

○87ページ 福祉国家の原点はマルクスとエンゲルスにある。

到達する福祉のレベルは資本と労働者の妥協の産物。

福祉国家は先進資本主義国が新社会に至る過程で通る一発展段階。

第3章

○94ページ ヨーロッパ諸国は1960年代から消費税を引き上げ始め1990年代から法人税引き下げ競争をしている。

○98ページ ヨーロッパの福祉水準は低下し続けており、福祉国家としては破綻している。

○100ページ にもかかわらず、労働者の闘いで、日本に比べれば依然として強固な福祉水準ではある。

○105ページ デンマークのエスピン=アンデルセンの主張

男性一人が働き、女性は専業主婦として家事労働に従事するというスタイルを止める。

有能なものは男女とも外で働き、

有能でないものは、有能な男女の家事や高齢者介護を請け負って働く。

有能な女性が家事を外注できるように子ども手当などを創設する。

*この効率的だが、能力差別的ないやな雰囲気はデンマーク映画「光の方へ」2010年によくあらわれている。

粉川哲夫という映画評論家は、この映画についてこう書いている。http://cinemanote.jp/2011-04.html#2011-04-22

「労働が価値でなくなれば、生活(→労働と読み替え;野田)の質が重視されるようになる。しかし、そのためには、ある種の教養や文化的蓄積が要求される。結局、ここで階級的振り分けが行われ、底辺にいる者は払い落とされることが多い。この映画の登場人物たちも、そうした生活(→労働)の質を求める脱労働社会に対応できなかった人間たちだ。
脱労働社会というのは、基本的に、『才能のない奴は働かないでおとなしくしていろ』という差別社会である。ある程度の社会保障をするからおとなしくしていろというのだが、実際には、そうはいかず、アルコールや薬物への依存を高める者が増える。」

**「労働が価値でなくなれば」というこの没社会科学的な表現は少し言い換えを必要とする。肉体労働が価値を失い、知的労働が重視されるようになると・・・」である。それにしても、この批評が実は本書の最後の方で響き合う。誰も労働しないですむ世界が果たしてやってくるのかという問題として。

○106ページ アンデルセン構想は、本来の福祉社会破綻の告白に過ぎない。宮本太郎のようにそれを日本に導入しようなんてのはどうかしている。

○EU再建構想 ①加盟国一律税制度を確立し「法人税引き下げ競争」を止めさせる ②EU全体の共通雇用政策を確立する

○しかし、この構想も提起されて20年間を経て全く前進の気配がない

第四章

○「せめてヨーロッパ並みの日本を」は道標にはならない。

○ラフォンテーヌの率いるドイツ左翼党は注目すべき党である。

第五章

○福島原発事故は、マルクスの言う「生産力と資本主義的生産関係の矛盾」そのものである。

○最近のEU金融危機を見ても分かるようにリーマンショック以来短い間隔で金融恐慌が繰り返されている。過剰生産恐慌ではない。過剰生産恐慌は次の発展の準備となるが、金融恐慌は次の金融恐慌を生むだけである。

*ここはリーマンショックを結局は過剰生産恐慌だとした不破さんとは意見が大いに異なるところ。ただし、その相違がどういう実践的違いを生むのかは僕には分からない。

○「日本資本主義を、せめてヨーロッパなみのルールを持った資本主義に変えれば、日本の大企業の健全な発展にも道を開くことになる」という主張は理解できない。改良で自己完結しようということで、社会主義を掲げることとは矛盾する。

*この部分は端的に日本共産党の路線の批判ではないか?

○イタリアのグラムシは、資本主義社会は権力的な「政治社会」と「市民社会」からできており、「政治社会」がぐらついても「市民社会」に支えられるという二枚腰の社会であるとした。

そこで社会変革にとって重要になるのが被抑圧階級の「高い知的モラル的ヘゲモニー」であるとした。

上田耕一郎は1973年当時このことを特に強調していた。

○米倉宏昌をトップとする財界の「新成長戦略」2010年の要は、アジアのインフラ整備に日本の企業が取り組むということである。

その中で水道は、検針や集金など地方自治体しか持たないノウハウがあるので、大阪市がホーチミン市、東京都がオーストラリア、北九州は中国、横浜市はインドと共同事業計画をもったが、その実、ハードの部分はパナソニック、三菱、日立、日揮、JFE(日本鋼管+川崎製鉄)、東レが請け負う。これには莫大な費用がかかるので、日本の税金や公的年金基金を運用する。

これは海外の水道事業を請け負う大企業が、国内の税金や年金蓄積分を横取りして海外での営利事業の資金にするということである。

○真の福祉国家は、マルクスがゴータ綱領批判で解明したように社会的総労働生産物から福祉のためのフォンドがあらかじめ取り分けられておかなければならない。

○そのためには生産手段を社会が掌握することが必要条件である。

○生産手段の社会化とは国有化のことでなく、多様な具体的形態が考えられる。国有化、地方自治体所有化、協同組合所有化、株式会社形態、労働組合管理形態、全社員自主管理形態などなどである。

○知識社会をどう考えるか?

ここでいう知識や情報は個人が持っているように見えるが、今の社会では「資本の生産力」の一部として使われる以外に使い道はない、生産手段である。マルクスは、学校教師でさえ、自らすすんで資本に協力しようというのであれば、「生産労働者」だといった。

知識社会だからこれまでと格別に違うということはない。

資本主義社会を変革した時に初めて、知識や情報が真に個人のものになるのである。

○生産手段の社会を基礎にした社会主義国で初めて福祉国家が完全なものになる。

○今の日本がすぐ社会主義に進むことはできない。「民主的変革の段階」が必要である。そのための政策論はケインズ左派とマルクス主義の併用である。

以下の二つの方法がどうしても必要である。

一つは多国籍大企業の統制。

もうひとつは市場の統制。

○大企業の統制とは、福祉財源を大企業に負担させることである。内部留保を活用せよ、の一言に尽きる。金融投機への課税=ト―ビン税も必要だ。

○市場の統制とは、農業や社会保障、教育、環境など市場に任せない分野をきちんと設定することである。

福島の悲劇に典型的に現れたように、生産力の発展=社会の発展とできる時代は終わった。

このことは資本主義に必要な資本蓄積のための経済成長が止まることを意味する。経済成長なしに安定した国民生活を保障する社会が今求められている。それは社会主義以外のものではない。

○しかし、マルクスは、社会主義のもとで資本主義の桎梏を抜け出して生産力がさらに伸び続けると考えた。このことと上記のことは矛盾しないか?

○この疑問は今は置いておくほかはない。今は資本主義のもとでの、利潤追求のための生産力上昇がもはや人類と共存できないという事実があるだけである。

そこを抜け出した時、どのような生産力の拡大があるかは誰にもわからない。

初期マルクスのように人間と自然の一体化を生産力と呼ぶようになるのかもしれない。それは生活の量と生活の質と表現できる。

生活の質QOL=センのいうケイパビリティだというのはつい先日に僕が悟ったことである。

もしかすると、マルクスの言う生産力とは「QOLの生産力」のことだったのかもしれない。

これまでは生産力は仮に物質生産の姿を取っていたのに過ぎない。商品生産となると、ますます幻想の生産の域に近くなる。

本質はQOL生産だったのではないか。

○中国は経済強国にすぎない。そのどこにも社会主義的要素はない。

補論

○210ページ 未来の担い手は知的労働者だ」とシュンペーターが言ったことは未来を考える手がかりになる。

○マルクスも知識労働の増大によって、「直接的労働が富の源泉であることを止める」ときが来ると言っている。そのとき、交換価値が使用価値の尺度であることを止めるのである。

○213ページ われわれが想定する社会主義社会ではあらゆる民主主義的制度を社会に張りめぐらし、国家を社会に「吸収する」。

*ポランニーの「社会が経済を自らのうちに埋め込んだ」状態=資本主義以前と「経済が社会を自らのうちに埋め込んだ」状態=資本主義との断絶の指摘に似た表現である。

○219ページ エンゲルスは、ドイツの社会主義は、裁縫職人ヴァイトニングのユートピア共産主義と、ヘーゲル哲学の崩壊から生まれてきたマルクスの合流だったと述べている。

○マルクスは協同組合を植字工プルードンから学んだ。マルクスはプルードンを打倒したのではない。プルードンから影響を受け学んだのである。

○反デューリング論でエンゲルスが述べた、社会主義=計画経済論は実現不可能なもので、後代の人たちの悩みの種になった罪深いものである。

○マルクスがプルードンや、バク―ニン、ラサールを敵として戦ったという話はスターリンのでっちあげで、彼らは社会主義に偉大な貢献をなしたと見るべきで、すくなくともレーニンまではそう考えていた。

グラムシ、トロツキー、ルカーチなどからも虚心に学ぶ必要がある。

○資本主義にはまだ発展する余力があると考えるのは、福島の例を見ても誤り。誤りの典型はゴルバチョフ。資本主義がまだまだ発展すると考えた彼はソ連崩壊を招いた。

ソ連は社会主義に無関係のものと、あたかもそれが存在しなかったかのように扱ってよいのか?その姿勢は歴史から何も学ばない姿勢である。

○233ぺ―ジ 政党は政治のためにある、政権を目指すためにあるが、社会はそういう政権をめざす政治を中心にしてのみ動いているわけではない。協同組合運動の発展をみると、そこに社会を前進させる力を感じる。もちろん、大企業を変えることなくして日本の変革はないが、それへの接近に協同組合運動が果たす役割は大きい。すなわち社会革命と政治革命の関係である。

*これはむかし蔵原惟人さんが言っていた「文化革命論」に似ている。

*目の前の大企業の力がものすごく大きいように見えても、たかだか150年の歴史程度のものである。同じくらいの時間があれば彼らを無力化することはできる。

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