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2012年4月24日 (火)

基本的人権としての健康権の位置づけ・・・・印南一路氏の主張を逆手にとって

これから書くことは印南一路「生命と自由を守る医療政策」東洋経済新報社2011からヒントを得ている。

すでに一度その本に触れているこのブログの2011年10月29日の記事を自ら要約してみる。

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この本の主題は憲法13条である。

13条[個人の尊重と公共の福祉]「全て国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

これは一般的には、「幸福追求権」を規定したものと記憶されている。

印南氏はこれに反論する。

前段は、個人の封建主義的な集団従属をきっぱり退け、個人が国家や国家以外の権力に対して優先することを高らかに宣言し、同時に個人相互の尊重と自律を重視することも含めて述べていると見て、憲法ないし基本的人権全体を貫く規範 だとする。

そして後段は社会的生命権と幸福追求権がそれぞれ独立して規定されている、とする。独立して、というところがミソである。

社会的生命権は基本的人権の基幹である。なぜなら、生命なくして全ての人権はありえないからである。社会的生命権は、社会保障に先行する「人間としての安全保障 」を規定しており、具体的には救命医療が全国民に平等に保障される根拠となる。単に生命権といわず、社会的生命権というのは、、具体的に個人が生命の保持を国家に要求することを保障する点を社会権だとするからである。

印南氏の主張において特筆すべきは、生命権をすべての基本的人権の基礎においたことだ。それは 憲法13条は通常信じられているように「自由権」の条文でなく、基本的人権全体の中枢なのである

そもそも自由権、社会権という 区別は歴史的な発生順に過ぎず、本質的な区別ではない、というのも極めて新鮮である

一方、13条生命権と25条生存権の関係についても印南氏は独自の見解を展開する。

憲法25条で保障される生存権は生命権を前提にしたうえでの補完的な生活権 のことである。それは基本的人権ではない。

そこで、この本の隠された意図が現れ、以上に記述された優れた点はすべて覆される。

「救命医療以外の医療は生活権にもとづく自立支援医療であり、基本的人権には属さない。したがって憲法25条に基づく通常医療は自己決定と自己負担を原則とする。」

これが印南氏の政治的本音である。

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僕は、健康権が基本的人権のすべての根幹として位置づけられるために、まず憲法13条の社会的生命権がすべての基本的人権の基礎だという印南氏の意見を採用したい。

しかし、憲法25条の生存権の位置づけをこのように低めることは不可能だと考える。

印南氏は救命医療が無条件に保障されるべきだとするが、救命を必要とする疾患は、25条を根拠に行われる医療の対象疾患の中から発生してくるのである。どう考えても、そこに線引きはできない。

そこで僕は、印南氏の言うような憲法13条の社会的生命権と、これまで通りの解釈の憲法25条の生存権を統合したものとして、最も基本的な人権として健康権があると主張することにしたい。それは、健康な生命はすべての人間活動と生活の基礎として無条件に保障される、という意味になる。

これには正気に返った印南氏にも満足してもらえるものと思っている。

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